「ヤーウェの履歴?」で不思議な太陽神を追いかけてみたら唯一神に辿り行く仕儀と相成った。その唯一神が、もしかしたら自分自身の心の中にある『何か』かも知れないという不思議な結果となってしまった。そこで、いま少し太陽神を追いかけてみようと思う。 その前に、創造神、あるいは全知全能の神というフレーズは、少し言葉を変えると最近よく見かけるフレーズでもある。例えば「私達の思考が現実を作って(創造して)いる」。「私達の潜在意識は全てを知っていて、潜在意識には不可能がない(全知全能)」。。。などなど。 このフレーズはニューソート思想に始まる、最近は「引き寄せの法則」で注目を浴びている願望実現でよく使われるフレーズである。 そのニューソート思想は聖書を時代に合うように見直そうという運動から始まっていて、潜在意識による願望実現を世界に広めた最大の功労者?ジョセフ・マーフィーは新旧聖書から引用して説明する事が常であった。 中でもとりわけ有名な箇所は、イエスの聖句「信じて疑わず、山に向かって、動いて海に入れと言えば、必ずそうなる」というくだりだろう。このような引用箇所は新約聖書のみならず、旧約の詩篇、ヨブ記など随所に及んでいる。 つまり、簡単に言ってしまえば、信じた通りの事が起こるという考え方は旧約の時代からあったかもしれないという事である。 ところで、このイエスを象徴するシンボルは幾つかあって、十字架も勿論そうであろうが、他にも子羊、魚、太陽などがある。父なる神と三位一体のイエスのシンボルに太陽が含まれていることは、前回の記事をお読み頂いた方には興味深い事と思われる。 イエスが何故に太陽というシンボルで表されるに至ったかは一言では言い難い。しかしこのシンボリズムは非常に重要な意味を含んでいて、特に秘教的な知識においては格別だといってよいだろう。 古来から太陽が重要視される理由は、それがメシア、つまりはキリスト意識を象徴するものだからである。これは唯一の神と同体の象徴であれば救世主であって当たり前といった単純なものではない。 例えば占星術では太陽はその人のアイデンティティもしくはパーソナリティを示す星として扱われる。雑誌などに記載されている星占いの欄は大概が太陽星座で占っていて、私は○○座という時のそれである。ここで言うアイデンティティとはあなたの本質、魂を指している。心とか魂を表す語、ソウル(soul)が太陽(Sol)から来ていることでも解るだろう。 つまり、キリスト意識とはナザレのイエスの意識のことではなく、私たち一人一人の中に宿っている魂の事なのである。 このことについてイエスは「あなた方一人一人の内なる神」と言ったし、お釈迦様は仏性について語っている。 またギリシャ神話で魂を表す神はプシュケーという女神であるが、彼女は夜な夜な現れるにも関わらず決して明かりをつけず、正体を明かさない夫エロスに疑念を抱き、とうとう明かりをつけてエロスを見てしまう。 神にとって姿を見られるのは忌むべき事とされていて、姿を見られたエロス(受難の愛)はプシュケーの前から姿を消してしまう。しかしエロスに会いたい一心のプシュケーはアフロディテ(金星)の難題を克服し、ようやくエロスと結ばれる事になる。。。ちなみに、エロスとプシュケーの間にはウォルプタス(喜び)という子供がいる。。。 この物語は魂を理解する上でとても象徴的な意味合いを持つ。そして、イエスはまさに愛の成就のために悪魔(金星)の誘惑を退け、受難を克服(復活)する事になる。プシュケーも生きながらにして冥界へと入り込むのだ。。。 カバラにおいても、太陽は金星と同じティファレトに位置することも、極めて象徴的な意味を持っているといえるだろう。ティファレトは調和、ないしは愛である。 話がそれるが、この象徴的な秘儀は、私達が魂(本当の自分)に至るには、ある種の受難が必要不可欠である事を物語っている。。。受難、あるいは、ある種の犠牲、あるいは、試練をともなわない愛が、私達を魂へと結びつける事はないだろう。 その最初の試練は「汝の敵を愛せよ」なのである。。。 さて、かような愛の姿こそキリスト意識なのであって、それには受難をともなう。ゆえに聖書の神は「妬む神」ともなりうるのではなかろうか。。。愛の試練は嫉妬であるから。。。 ここに来て観念神としての唯一神が太陽という象徴で語られてきた事の傍証を見る事が出来そうだ。つまり、秘教的な意味合いにおいても太陽神=自分という定義は確かなようだと思われる。もっとも、その自分は犠牲を厭わない愛に目覚めた自分という条件付きのものではあるが。。。 もしかしたら顕教的な絶対神と、密教的な絶対神の違いが、内と外に分けたのかもしれない。。。 太陽神は「光」とは切っても切り離せない存在だが、アテンには「事実をありのままにさらけ出す(WIK)」という意味があったらしい。 私的には、このフレーズは仏教の「自灯明、法灯明」とか「無明」という苦の原因を思い起こさせる言葉であるが、そのような事を考えながら、たまたま今日聞いていたラジオの人生相談でこんな事を言っていた。 私達はしばしば不安にとり憑かれるが、それは本当の原因から目を背ける事で生じている。大概それは自分の中にある原因を見ずに、自分の外にあるものを不安の原因だと思い込むことで始まる。 自分が不安の原因だと思っているものが、実は本当の原因ではなく、自分の内側にある本当の原因から目を背けてしまうときに、私達はいいようもない、逃れ得ない原因不明の不安に陥る。 しかし、それが本当は自分の中にあったのだと見つけ出し、これが自分が抱えていた本当の原因だと「認めたとき」に、相変わらず困難はあったとしても、不安は消えてゆくものである。(かなり独断的にまとめてます^^;) さて、事実をありのままにさらけ出すとは、実にこのようなものだと思うのです。私達は無意識の内に自分を守ろうとしていて、自分を傷付けてしまう事を極度に恐れています。それ故に、これまた無意識の内に恐れや不幸の原因を自分以外の何かに転嫁し、自分を守ろうとする機能があります。本当にこれは無意識的な機能です。 これがあるために私達は真実をありのままに見る事が出来ません。しかし、不思議な事に、無意識的な機能として真実を隠しているはずの心が、本当の原因を見ていないぞ!と、言い知れぬ不安としてメッセージを送って来てもいる。。。 真実を隠そうとしているのも私達の心であるならば、それをさらけ出そうとしているのも私達の心。。。この相反する二つの心の働きの中に、内に秘められた太陽の光「灯明」が見える気がします。 イエスは常にこういいました「あなたの信じる通りに成れ」、「あなたの信仰があなたを救った」と。これらは一体何を意味するのでしょう? ここから先の妄想は、是非、皆さんにお任せしたいと思います。。。
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