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趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

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Author:やわたうま
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第二の天性になるまで。。。 

 何よりも心が大事だと教えられた時、羨みはまだ良いけれど嫉妬にだけは気をつけなさいと、そうも教えられた。羨みは人を成長させもするが、嫉妬だけは何も良い事がないと。。。

 羨みは「羊」+「涎」という文字だ。美味しそうな羊を見れば、涎が出てくるのは人の本能。けれど嫉妬には憎しみが混じる。。。(それにしても、何故に日本には羊はいなかったはずなのに、こうも羊の入る文字が多いのだ?)

 羨みと嫉妬の差が解らなかった頃、それはただの詭弁にしか聞こえなかった。今は、少しはそれが解る。。。

 羨みには、憧れという意味もある。けれど、嫉妬には憧れはなくなって、焦がれ、、、だけしかない。羨みも高じれば、妬み、憎しみの炎に身を焦がす事になる。一際輝いていた黎明も、嫉妬ゆえに地に堕ちたのだ。。。

 

 不思議な事に、人は何が羨ましい事かを何故か知っている。自分が持っている何かより、もっと素晴らしいものを見ると、それが欲しいと羨むものだ。そこまでは私達の本能、それに良いも悪いもない。問題はそれをどうやって叶えるか、、、なのだ。

 羨み、憧れて、自分もそれを手に入れようと一心不乱に努力するなら、羨みは私達を大きく成長させてくれる。けれど、自分が持たないものを、誰かが持っていても、それを妬み、憎しみを抱き、引きずり落とそうとするなら、彼を成長させる要素は何処にも無くなる。。。

 希求すればするほど、その狭間はとても危険な場所になる。

 その過ちを犯さぬようにするには、自分の心をコントロールする習慣が必要になるだろう。

 

 私達を苦しめるものは、本能から生まれるが、それは羨みと同じで、本来悪いものなんかじゃない。ごくごく自然なもので、正しい方法で、それを叶えるなら、私達は本能のお陰で成長する事ができる。でも、間違った方法で、それを達成しようとするなら、それは嫉妬と同じものになってしまう。。。

 私達はいつも、この様な選択に迫られているが、常に正しい方法を選択し続けるためには練習が必要だ。それが第二の天性となるまでは。。。

 

 未熟な本能から見れば、愛いすることも、許す事も、思いやりも、笑顔も、与える事も、全ては不自然この上ない事だ。それをしようとすれば、必ず本能からの抵抗を受けるだろう。だから、それをする事は、そうそう簡単なことではない。

 けれど、私達は、いつか、それを第二の天性にしなければならない。

 

 愛する事が当然であるようになるまで。。。

 愛そうと考えなくても愛しているようになるまで。。。

 許そうと思わなくても許しているようになるまで。。。

 与えようと考えなくても、全てを与えきっているようになるまで。。。

 愛とは何か、解らなくなるまで。。。

 許すとは何か、解らなくなるほどに。。。

 

 それを、あなたの第二の天性にしなさい。。。彼はそういった。その時、あなたは人になる。。。と。

 

2008/03/19 00:35|山術房:心行TB:0CM:0
 

春祈祷 

 昨日、当家で恒例の春祈祷が行われた。出羽三山の宮司さんをお招きして、地区の方々が集まり、一年の息災を祈念するために行われる。

 もともとは、地区の出羽三山参拝団というのがあって、その方たちによる地区をこぞっての行事だった。何処でもそうかと思うが、こうした行事に参加する方々は年々減少する傾向にあるため、近年は我が家を使用して行われている。

 参加者が集まって、祭壇から折り詰めまで全て手作りの自前である。最近、偶然にもとある方と月の神様に関する話をしていたので、こういう偶然も中々楽しいものである。

 

 その宮司さんが、月山参拝時の無邪気の話をされていた。お山の五合目辺りまでは、下界の邪気が漂っているが、そこを超えると邪気がスーッと消えていって無くなり、無邪気になるというのである。無邪気になると、頭がすっきりとして、身体も軽く感じるという。なるほど、邪な気持ちは、心魂を覆う鎧のようなものだろう。

 度々書かせて頂いている「ガラス張りの心」は、まさに無邪気な心に他ならないと思いつつ、お話を伺っていた。

 

 先年、実弟と白神山地に写真を撮りに行ったことがあった。土曜日に仕事を終えて出発、翌日の朝景を目指して車を走らせた。

 さあ、白神山地に着いたと思ったとき、目前に吊り橋が現れて微妙な気配をかもし出していた。私はあれっ?と思ったが、何せ恐がりな実弟が運転していたから素知らぬ顔を決め込んでいた。が、車が橋に差し掛かったとき、急な圧力を感じ度肝を抜かれたことがある。

 さすがに実弟もビックリしたようで「兄!今のなんだったんだ?」と慌てふためいていたのを思い出す。車中でしかも冬の事だったから窓は締め切っていたにも関わらず、風圧のようなものを二人で感じたのだから不思議な事この上ない。

 とは言っても、御神域に参入する時は、そう珍しいことではないが、その圧力間が桁外れだったのである。神社などに参拝すると、その雰囲気に打たれて清浄な気分になると言うのは良くある事だと思う。けれど、その時は気分だけではなく身体でも感じてしまうほどだったのだ。

 白神の御神域は随分と古い。どの様な神々が祭られているのか、恥ずかしながら私も知らないのであるが、年季の入った強力な御神力は十分に分かる。きっと、縄文の頃の古くから、そこは神々の御住まいだったのだろう。

 

 こうした御神域に参入すると、その御神力に触れて身の不浄が祓われる。身の不浄と言っても、神様から頂いた我が身体が不浄な訳ではない。よく六根清浄というが、六根とは「眼、耳、鼻、舌、身(蝕)、意」の六つの事で、見たもの、聞いたもの、など、五官を通して意識に入ってきたのもを、我欲から意識が曲げてしまうという事だ。

 だから、六根の不浄は私達の自己中心的な見方、聞き方、感じ方にあるという意味。それを清浄にするとは、我欲を交えずに有りの侭に見て、聞いて、感じるようにすると言うことでもある。

 

 清浄悉々の境地に座して惑わなければ、不成(ならず)を得ることなし。。。精妙な音叉は、微弱な音も拾い共鳴するように、清浄悉々の我が身は神惟に共鳴、共振して、世を開くのである。自ら清浄な音叉は、不浄な音を拾うことはない。。。そして私も、かように在りたいものだと願う。

 

2008/03/17 14:47|山術房:心行TB:0CM:0
 

自分を見出す事と、自己を創造する事と 

 今年も早や師走を迎えることになった。こうして年末を迎えると、自分は今年何を為しえたのだろうかと毎年考え込むのが常だ。

 これを為したと、胸を張って言えるほどの事がないと言うのはお寒い限りだ。しかし、時の流れに身を任せつつ、時の求めに応じるのみと決めたある年からは、これで良いのかもしれないとも思う。

 老荘思想の無為自然という言葉が好きで、そうしようと決めたのであるが、そう決めてからもう4年になる。それまでの自分は、意志して事を為すべきか、流れを受容してゆくことにするべきかと悩みもした。

 何かを為したいという欲求に抗うのは、それはそれでなかなか大変なことでもあるが、もうしばらくは決めた道を進むことになるのだろう。

 

 ところで、このブログではいつも本当の自分という言葉を使ってきた。本当の自分を見つけること、それが一番大切だと、そのような事を書いてきたつもりだった。一方で、どう在りたいか?それが大切だとも書いてきた。

 ある方からメールを頂いて、この二つが同じものだと書いたことがなかったことを思い出したので、少しく書いておきたい。

 

 本当の自分は既に完成されている自分である。それは全ての人の中に存在するし、もし、私達がそれに関心を向けるなら、少しずつでも何かを感じ始めるだろう。

 一方で、在りたい自分というのは、今現在の自分が考える理想的な姿である。理想は常に理想であるといわれるが、それは机上の空論という意味とは全く違うと私は思っている。というのは、理想に向けて私達が一歩進むと、理想もそれに応じて一歩進むことになる。

 だから理想は常に理想のままであるが、その理想に向かって邁進するなら、過去に持っていた理想より今現在の理想の方がずっと高邁なものになっているに違いない。それは取りも直さず、その理想に向かって自分が成長してきたということに他ならないと思うからだ。

 理想に向かう途道で獲得された特質は、私達の魂の中に輝けるエッセンスとして蓄積されてゆく事になる。もし、私達が生まれ変わったとしても、そのエッセンスは決して失われることはないだろう。

 

 理想に向けて邁進するという事は自己の創造に他ならない。 つまりどう在りたいか?を洗練させてゆく作業と同じである。その洗練させた先に在るものが「本当の自分」なのだと思う。

 究極の理想的な自分と、本当の自分が同じものという言い分には矛盾が指摘されそうな気もするが、スピリチュアルな世界でよく言われるハイアーセルフはまさにそれだとしか言いようがない。

 

 私達がより理想的な何かを心から求めて、その感度を上げてゆくなら、私達はそのハイアーセルフと対面することが出来る。

 不思議なことに、その理想を実現した未来の自分は、遥かな時を超えて私たちにメッセージを送って来てもいるのだ。多分この事は気が付いていないとしても、多くの人が体験しているはずである。

 その一例を上げてみると、何かの問題が湧き起こった時、あなたはその問題に対面して不安になり、悩んだ経験があるだろう。それでも、心のどこかで妙に楽観視していたという体験はないだろうか。。。

 この時あなたは、未来のあなたから「大丈夫、心配ない」というメッセージを受け取っている。

 もちろん、こうした感覚的なことは、私達のエゴによる思い込みや、希望的な情緒であることも少なくないが、もし、あなたが自分の心を感じ取る感覚を養うなら、その出所を感得し得るはずだと思う。

 時間の流れは、過去から未来へと流れる一方通行ではないし、元々時間とういう存在すら怪しいものだと私は感じている。

 

 自己の創造には努力や意志が必要だし、そう簡単なことではないが、意識的でいる限り私達はみなその途上にいる。

 そのような訳で、本当の自分を知ることと、どう在るか?という問題は同じことなのである。

 実際に、あなたが、自分を理想的な状態へと運んでゆくことに集中するなら、あるべきではない状態も見えてくるはずだ。私達はこうした事を、理想に向かうなら当然起きてくる心の動きだと思っているが、実際にはそれ以上の意味があると私は思う。

 いずれにしても、私の本当の自分に向けた自己創造への奮闘はまだまだ続きそうではある。。。

 

2007/12/03 02:01|山術房:心行TB:0CM:18
 

太陽とメシア 

 「ヤーウェの履歴?」で不思議な太陽神を追いかけてみたら唯一神に辿り行く仕儀と相成った。その唯一神が、もしかしたら自分自身の心の中にある『何か』かも知れないという不思議な結果となってしまった。そこで、いま少し太陽神を追いかけてみようと思う。

 

 その前に、創造神、あるいは全知全能の神というフレーズは、少し言葉を変えると最近よく見かけるフレーズでもある。例えば「私達の思考が現実を作って(創造して)いる」。「私達の潜在意識は全てを知っていて、潜在意識には不可能がない(全知全能)」。。。などなど。

 このフレーズはニューソート思想に始まる、最近は「引き寄せの法則」で注目を浴びている願望実現でよく使われるフレーズである。

 そのニューソート思想は聖書を時代に合うように見直そうという運動から始まっていて、潜在意識による願望実現を世界に広めた最大の功労者?ジョセフ・マーフィーは新旧聖書から引用して説明する事が常であった。

 中でもとりわけ有名な箇所は、イエスの聖句「信じて疑わず、山に向かって、動いて海に入れと言えば、必ずそうなる」というくだりだろう。このような引用箇所は新約聖書のみならず、旧約の詩篇、ヨブ記など随所に及んでいる。

 つまり、簡単に言ってしまえば、信じた通りの事が起こるという考え方は旧約の時代からあったかもしれないという事である。

 

 ところで、このイエスを象徴するシンボルは幾つかあって、十字架も勿論そうであろうが、他にも子羊、魚、太陽などがある。父なる神と三位一体のイエスのシンボルに太陽が含まれていることは、前回の記事をお読み頂いた方には興味深い事と思われる。

 イエスが何故に太陽というシンボルで表されるに至ったかは一言では言い難い。しかしこのシンボリズムは非常に重要な意味を含んでいて、特に秘教的な知識においては格別だといってよいだろう。

 古来から太陽が重要視される理由は、それがメシア、つまりはキリスト意識を象徴するものだからである。これは唯一の神と同体の象徴であれば救世主であって当たり前といった単純なものではない。

 

 例えば占星術では太陽はその人のアイデンティティもしくはパーソナリティを示す星として扱われる。雑誌などに記載されている星占いの欄は大概が太陽星座で占っていて、私は○○座という時のそれである。ここで言うアイデンティティとはあなたの本質、魂を指している。心とか魂を表す語、ソウル(soul)が太陽(Sol)から来ていることでも解るだろう。

 つまり、キリスト意識とはナザレのイエスの意識のことではなく、私たち一人一人の中に宿っている魂の事なのである。

 このことについてイエスは「あなた方一人一人の内なる神」と言ったし、お釈迦様は仏性について語っている。

 

 またギリシャ神話で魂を表す神はプシュケーという女神であるが、彼女は夜な夜な現れるにも関わらず決して明かりをつけず、正体を明かさない夫エロスに疑念を抱き、とうとう明かりをつけてエロスを見てしまう。

 神にとって姿を見られるのは忌むべき事とされていて、姿を見られたエロス(受難の愛)はプシュケーの前から姿を消してしまう。しかしエロスに会いたい一心のプシュケーはアフロディテ(金星)の難題を克服し、ようやくエロスと結ばれる事になる。。。ちなみに、エロスとプシュケーの間にはウォルプタス(喜び)という子供がいる。。。

 この物語は魂を理解する上でとても象徴的な意味合いを持つ。そして、イエスはまさに愛の成就のために悪魔(金星)の誘惑を退け、受難を克服(復活)する事になる。プシュケーも生きながらにして冥界へと入り込むのだ。。。

 カバラにおいても、太陽は金星と同じティファレトに位置することも、極めて象徴的な意味を持っているといえるだろう。ティファレトは調和、ないしは愛である。

 

 話がそれるが、この象徴的な秘儀は、私達が魂(本当の自分)に至るには、ある種の受難が必要不可欠である事を物語っている。。。受難、あるいは、ある種の犠牲、あるいは、試練をともなわない愛が、私達を魂へと結びつける事はないだろう。

 その最初の試練は「汝の敵を愛せよ」なのである。。。

 

 さて、かような愛の姿こそキリスト意識なのであって、それには受難をともなう。ゆえに聖書の神は「妬む神」ともなりうるのではなかろうか。。。愛の試練は嫉妬であるから。。。

 ここに来て観念神としての唯一神が太陽という象徴で語られてきた事の傍証を見る事が出来そうだ。つまり、秘教的な意味合いにおいても太陽神=自分という定義は確かなようだと思われる。もっとも、その自分は犠牲を厭わない愛に目覚めた自分という条件付きのものではあるが。。。

 もしかしたら顕教的な絶対神と、密教的な絶対神の違いが、内と外に分けたのかもしれない。。。

 

 太陽神は「光」とは切っても切り離せない存在だが、アテンには「事実をありのままにさらけ出す(WIK)」という意味があったらしい。

 私的には、このフレーズは仏教の「自灯明、法灯明」とか「無明」という苦の原因を思い起こさせる言葉であるが、そのような事を考えながら、たまたま今日聞いていたラジオの人生相談でこんな事を言っていた。

 

 私達はしばしば不安にとり憑かれるが、それは本当の原因から目を背ける事で生じている。大概それは自分の中にある原因を見ずに、自分の外にあるものを不安の原因だと思い込むことで始まる。

 自分が不安の原因だと思っているものが、実は本当の原因ではなく、自分の内側にある本当の原因から目を背けてしまうときに、私達はいいようもない、逃れ得ない原因不明の不安に陥る。

 しかし、それが本当は自分の中にあったのだと見つけ出し、これが自分が抱えていた本当の原因だと「認めたとき」に、相変わらず困難はあったとしても、不安は消えてゆくものである。(かなり独断的にまとめてます^^;)

 

 さて、事実をありのままにさらけ出すとは、実にこのようなものだと思うのです。私達は無意識の内に自分を守ろうとしていて、自分を傷付けてしまう事を極度に恐れています。それ故に、これまた無意識の内に恐れや不幸の原因を自分以外の何かに転嫁し、自分を守ろうとする機能があります。本当にこれは無意識的な機能です。

 これがあるために私達は真実をありのままに見る事が出来ません。しかし、不思議な事に、無意識的な機能として真実を隠しているはずの心が、本当の原因を見ていないぞ!と、言い知れぬ不安としてメッセージを送って来てもいる。。。

 真実を隠そうとしているのも私達の心であるならば、それをさらけ出そうとしているのも私達の心。。。この相反する二つの心の働きの中に、内に秘められた太陽の光「灯明」が見える気がします。

 イエスは常にこういいました「あなたの信じる通りに成れ」、「あなたの信仰があなたを救った」と。これらは一体何を意味するのでしょう?

 ここから先の妄想は、是非、皆さんにお任せしたいと思います。。。

 

2007/11/05 22:03|山術房:心行TB:0CM:4
 
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