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趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

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Author:やわたうま
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四禅八定 

 仏教の世界観では欲界、色界、無色界と大きく三つの世界からなっている。覚者となった如来の世界は無色界の遥か彼方に在るといわれ、この三界には入っていない。解脱したものは生まれ変わってくる事がないので、知りえない世界だからという事だろうか。。。

 

 欲界は地獄、修羅、餓鬼、畜生、人、天の六つの世界に別れているので六道といい、人はこの六つの世界で転生輪廻を繰り返すといわれるので、これを六道輪廻という。生前の功徳に従って解脱をするまではこの六つの世界のどこかに生まれ変わると言われている。

 

 地獄は生前の罪を償うために行く場所とされ、八熱地獄と八寒地獄があるから16種類の地獄があることになっている。更に各地獄にはそれぞれ四つの門があり、一つの門につき四つの副地獄があるから、計256種類の地獄があることになる。

 修羅界は阿修羅の住まうところで、絶えず怒りと闘争に明け暮れる世界である。

 餓鬼界は貪りの世界であり、食べ物を口に入れようとすると急に燃え出してしまうので、飢えと渇きに苛まれる世界だといわれる。

 畜生界は牛馬の世界であるが、言ってみれば本能の赴くままの世界であり、人間にこき使われ、されるがままの世界であり、自己がないので救い難い世界でもある。

 人の世界は、御存知のように苦しみの世界であるが、時には楽しみもあり、仏に成り得る可能性もあるのだから、ここに来てようやく人は救いにあずかることが出来る。

 天界の住民はとても長い寿命を持っており、空を飛び、諸々の楽しみの中に住まう事ができる世界である。それでも煩悩から解き放たれては居ないので、いずれ寿命が尽きる時が来て、五衰という死の調候が現れる。身体に垢が出てきて悪臭を出し始め、脇の下に汗をかくようになり、居心地が悪くなってきて、頭の上の花が萎む。

 このように、たとえ天界の住人といっても、いずれ死を迎えて六道の何れかに生まれ変わる事になる。

 

 欲界の上には色界がある。色界の住人は食欲と淫欲を断っており、光明を食するとされるのだが、「色」と名が付くだけに、まだ物質世界に対するとらわれが残っている。

 この世界は大きく四つの世界、さらには18の天に別れているので四禅十八天の世界である。それは初禅、二禅、三禅、四禅と呼ばれているが、欲望や捉われの心から離れるに従って上の世界へと住まう事になる。

 

 色界の更に上には無色界というところがある。無色なので、この世界の人は欲望も物質も超越しており、「識(精神)」の活動のみが残っている。

 この世界も四つの世界からなっていて、第1の世界は「空無辺処」と称して一切の想念を滅していて、宇宙の無限を感得している人たちである。第2の世界は「識無辺処」と称して、「識(精神)」は無限であると感得している。次の第3界は「無所有所」と呼ばれ一切の色を断って、何ものも無しと感得している。第4界は「非有想非無想処」と称して、何ものも無しという思いすら断ち切っている。

 この第4界が天界の最上部である所から「有頂天」という言葉はここから来ている。

 

 これがあの世も含めた大まかな仏教の世界観であるが、お釈迦様などの如来の世界は、この無色界の更に遥か彼方にあるといわれる。しかし、今回は仏教の世界観を著すのが目的ではない。

 「一念三千」という言葉があるが、この三千とはこれまで書いた欲界、色界、無色界の世界にはそれぞれ千の段階があるとして三千世界と称するとも、あるいは過去、現在、未来、それぞれの一千世界があるとも称していて、私達の思い(一念)が、それらの何れかの世界に通じるところから「一念三千世界に通ず」と言われるところなのである。

 

 これを翻せば、私達の心は絶えず揺れ動いているが、その度毎に、時には地獄に通じ、時には天界に通じという具合にはなはだ落ち着きなくあっちに振れ、こっちに振れを繰り返しているものである。

 一念が三千世界に通じるという事は、その都度、通じた世界を呼び出しているに相応しい。もし私達の今この瞬間の思いが修羅界に通じているなら、私達は今この瞬間に修羅地獄を呼び出しているのであり、もし、無色界に通じるなら、私達は今この瞬間に、無色界をこの世に、そして自分の周囲に呼び出しているということになる。

 

 実際、仏教では四禅八定の瞑想の段階があるとされるが、その思念、禅定の段階は、これまで書いた欲界、色界、無色界に通じており、それぞれ四つの禅定の段階がある。それ故に四禅八定と言う訳である。

 

欲界に対応する四つの段階は

  • 粗定:意識を集中して雑念を払う段階。
  • 細定:より深く集中して雑念がだいぶ治まった段階。
  • 欲界定:意識は安定し、夢を見ているような感覚だが身体の感覚が残っている段階。
  • 未到定:身体そのものの感覚が薄らいで、幸福な気分に到る段階。

 

色界に対応する禅定の四つの段階は

  • 初禅:更にとても気分が良くなり、様々なビジョンが見えてくる段階。
  • 二禅:ビジョンすらも薄らいで幸福感だけが強まる段階。
  • 三禅:自分の幸せな気分すら冷静に見えてきて、充足感のような気持ちが出てくる段階。
  • 四禅:煩わしい思いは既に消えて、静寂な充足感に満たされる段階。

 

無色界に対応する禅定の四つの段階は

  • 空処定:寂とした充実感が消えて、無限の空になる段階。
  • 識処定:空であるという感覚すら消えて、精妙な意識(末那識)の流れだけが残る段階。
  • 無有処定:末那識すら消えて、自他の境界がなくなる段階。
  • 非想非非想処定:一切の対象物が消えてしまう段階。在るのでも、無いのでもない段階。

 

 このように禅定は進むとされている。

 段階は数あれども常住するとなれば、これまた話は別である。が、時にはくつろいで一段上の感覚を目指してみるのも、また楽しいのではあるまいか。。。

  

一念三千、せめて人らしい想いの世界に住みたいものだと思う。。。

 

2007/03/06 21:29|山術房:瞑想TB:0CM:10
 

ちょっと瞑想の話 

 最近はそれほどでもないが、昔は結構瞑想をよくしていた。特に太陽の瞑想が好きで我流の日輪観が多かった。昔から太陽は大好きで幼少の頃はじっと太陽を直視していると、その太陽が緑色に変わるのが面白く、事ある毎に太陽を眺めていたのを思い出す。今にして思うとよく失明しなかったものだとぞっとする^^;

 それでも懲りずに真夏日でも原っぱに寝転がって、よく昼寝をしたものだ。暑くて全身汗が吹き出ているが、それでも太陽の光を浴びるのは心地よかった。

 

 そんな風だから、私が瞑想に入る導入編はいつも日輪観だったわけである。ちょうどおでこのあたりに太陽をイメージし気の向くままそれを眺めていると、次第に太陽は大きくなってくる。いつの間にか自分の身体を包むほどに大きくなる頃には、全身がぽかぽかと暑いくらいになる。そのせいか私は真冬の外出時でも四枚以上は着た事がなかった。

 今では温暖化のせいか北国といってもかなり暖かくなった。それでも、子供の頃はマイナス10度は結構当たり前にあったのだが。Tシャツとワイシャツ、それにベスト。外出時はジャンパーで十分事足りた。

 特段寒いときでも、ゆっくりと呼吸をしてリラックスすると身体が温まって平気なのである。寒い寒いと肩をすぼめて小さくなる人がいるが、そういう緊張した体勢は寒さに向かないと今でも思う。

 

 さて、そんな夏のある日、夕焼けを見ながら散歩をしていると不思議な現象に出くわした。ちょうど太陽をおでこに置いて座禅を組んでいる人が見えてきたのである。立派な王冠をつけていたので大日様だと思いつつ、ちょうどそちらのほうへと向かって歩いているうちに、どうも顔が変だと気が付いた。何が変かって、その顔はどう見ても自分の顔になっていたからだ。

 まさか自分が大日様だとは夢にも思わないし、今でもそんな大それたことを言うつもりは毛頭ないが、その出来事はそれからというもの随分と長く続いた。当時は様々な神秘体験を重ねていたときだから、そんなこともあるのだろうと思っていたのだが、大日様の力を受けてか益々数が増えていった。

 当時、私の家から夕日の方向には三戸という友人達の町があるのだが、その友人達がお前昨日はお日様になっていただろうと言われることもしばしばだった。ちょうど私が大日様を見ていたときに、友人達も気付いていたらしかった。時間的にも全く一致していたので、面白いシンクロもあるものだと感心したものだ。考えてみると、こういうシンクロはこのときを境に増えたような気がする。

 共時性といえば聞こえはいいが、要は精神感応だと思わざるを得ず、人の心が深いところでつながっていると確信を深めた体験である。だからありがたいことに「全ては一つ」だと、何の抵抗も無く信じるに至った。

 

 友人などが泊まりがてら私の部屋に遊びに来ると、部屋の四隅には光の柱が必ず立った。最初は光っていると思っていただけだが、それがどうやら四天王のような守護者であると気が付くのに、そう時間はかからなかった。

 私達の話題はいつも真理についてで、一般の高校生が話す話題は全くといっていいほど出なかった。夏休みというせいもあり、随分と遅くまで話し込むことが多かったが、その光の柱が立つときは全く疲れず眠気もささなかった。それが一般的な話題になると、途端に光の柱は消えて、どっと睡魔が襲ってきたのだから、これもなかなか面白い体験だった。

 真摯な話題では必ず天が支援してくれる。私は今でもそう思っている。

 

 そんな体験を続ける中、私はいつものように散歩に出て太陽を抱く自分を見ていた。それがいつもに増してリアルだったからか、すぐに私は瞑想をしなければならないと感じた。

 急いで家に帰ると部屋に篭って胡坐を組み、座り始めた。いつもなら導入編から入るのだが、この日はすぐに気持ちが落ち着いて、ちょうど覚醒と眠りの中間地点に到達した。もっとも、そこに到達すると意識がスーッとスッキリとして頭の中に宇宙が見えてくる。その状態でしばし味わっていると目を閉じているのに周囲の様子が見えてきた。

 部屋の壁がガラスのように透き通って家の外まではっきりと見える。家の前にある道を走り抜ける車、人。。。猫^^;

 もっとも、それが本当かどうか確認のしようが無いのだから本当の所はわからない。

 

 それは初めての体験だったので、些か興奮しそうになったが、興奮すればすぐに終わると思い、とにかく気持ちを一定に保って静かに観察することにした。

 すると今度は自分の体がグーッと大きくなり始めた。家の壁を突きぬけ、どんどん体が拡大して行くのだ。やや下を見ている私の目の前に、遥か下方にある自分の体が映った。

 街並みがずっと小さくなり、私の住んでいた青森県が全望できた。気が付くと私の頭は雲を突きぬけ、胸の辺りを入道雲が動いている。丸い地球の地平線が殆んどボールのように見え、東北六県と北海道が視界に納まった。

 

 あちこちにポツリポツリと光る点が見えた。光の大きさも色も、輝きの度合いもそれぞれ、一点一点異なっているが、大地を覆う光点のネットワークのように見えた。その中の一点に意識を移動すると顔と同時にその人の一生らしきものが見えてくる。今抱えている悩み、そしてその原因、その人の心の中のつぶやき、、、、それらがちょうど映画の映像を重ね合わせたように出現するのだ。過去、現在、未来の映像が折り重なるように見えるが、その一つ一つの映像はそれぞれきちんと識別できた。

 一枚のスクリーンにいくつもの映画を映しているのに、一つ一つの映画をそれぞれ別々に見ているかのように解るのである。そして時間の筋が過去から未来へと流れてゆく。。。

 あちらこちらを意識を動かすと、それに応じて様々な人の人生が見えてくる。一人一人を見ることを止めて、意識をスーッと引いてより大きな枠をイメージしてみた。。。

 と同時に、頭の中に、多分その視界の中に入っている人たち全てと思われる人々の声が聞こえてきた。喜び、悲しみ、叫び、、、私の頭の中は一瞬にして数え切れない人たちの言葉で埋め尽くされたのである。勿論それは、瞑想中の幻覚だったのかもしれない。私自身、リアリティーはあったものの幻覚ではないという確信は全く無い。どの様なものかも未だに理解できてはいない。

 

 多くの人の悩み、苦しみ、悲喜交々の思いが入り混じって私の頭の中も引き裂かれそうになったが、気持ちを落ち着けると、それでも、全体としてバランスが取れていると気が付いた。

 私たちは悩みや苦しみ、喜びや楽しみに右往左往しているが、それは見かけだけなのだと思う。勿論、それらは渦中にある人にとっては重大事だし、身を焼かれる思いで過ごしていることだろう。でも、私たちはその深いところで、全てを理解し、その人生経験を見守っている。

 人生経験が一人一人違うとはいっても、その人生経験は一人では作れない。仲間役、敵役、仲介役、、、と、様々な人の支えがあって、その人生は演出されている。そのことに気が付くのは難しいかもしれないが、それでも、私達の人生は造られているのだと思う。

 だから、ちょっとだけ視点を変えると、その人生は新しい役をもともめて、新しいステージに移ってゆく。多くの人はその新しいステージの一歩手前で踏み止まっている。本当にもう一歩前に踏み出すだけで、人生は変わってゆくだろう。

 

 多くの人の人生を垣間見て、一人物思いに耽っていた時、階下から私を呼ぶ母の声が聞こえた。「ご飯だよ〜」って^^;

 気が付くと既に2時間以上も過ぎていた。私の中ではちょっとした時間でしかなかったのに。。。

 同じような体験はそれから10年以上もたった頃にもう一度体験することになるが、今でも、あれはなんだったのだろうと思う。。。

 

2006/09/17 20:30|山術房:瞑想TB:0CM:11
 

呼吸法と注意点 

 私たちが無意識のうちに行っている呼吸だが瞑想には欠かせない要素の一つとなっている。瞑想や仙道で用いるのは腹式呼吸であるが、その腹式呼吸にも幾つかの種類がある。仙道ではこれを『調息・武息・胎息』と大きく三つに分けている。

 呼吸のリズムは『吐く・止める・吸う』のサイクルで行われるが、単純に言って吐息を吸気よりも長く取れば『調息』、吐息よりも吸気を長く取れば『武息』となる。では胎息はといえば、調息を鍛錬してゆくと呼吸そのもののリズムが長くなり、ついには無呼吸となると伝えられる。つまり胎児の呼吸と同じようになり、肺呼吸ではなく皮膚呼吸になるというのである。

 思うに、瞑想とは肉体的な活動を極限まで下げて、精神のみが活動をしているようなものだから、理想から言えば肉体は仮死状態になっていたほうが都合が良い。もっとも意図的にこのような状態になれるはずはないだろうから、あくまでも理想としてである。胎息とはまさにこのような状態ということが出来るだろう。

 

 呼吸と瞑想の関係でよく取りざたされるのは、呼吸が随意筋と不随意筋にまたがって動いているということである。随意筋は意識で動かすことが出来る筋肉であるが、不随意筋は意識の力では動かせない例えば心臓などの筋肉のことを言う。

 乱暴な言い方をすれば、随意筋は表面意識と深いつながりがあり、不随意筋は潜在意識と深い関係にあるといえる。呼吸で使われる筋肉はこの両方のちょうど中間にまたがっている。だから、意識的に呼吸をすることも出来るし、全く意識しなくても呼吸が止まることはないというわけである。

 瞑想などで呼吸が重視されるのは、意識的に呼吸をすることで不随意筋(自律神経系・潜在意識)を刺激しようという目的があるからだ。裏を返せば瞑想が潜在意識の活用に関係しているからと言うことも出来よう。

 

 一般に調息は気を静めるときに用いられ、武息は練功など気を練り高めるときに用いられる。現代人は気が頭に上っていること(上気)が多いので、瞑想といえば調息に比重を置いた方がよいということになるだろう。

 ただ調息の弊害もある。私は現在、血圧が95前後しかない。少し気持ちを落ち着けると80まですぐに下降する。生来の低血圧というわけではなく、二十歳ぐらいまでは普通の血圧(120前後)であったのだ。それが調息主体の呼吸法を続けた結果(一日中意識的にその呼吸法を続けていた)そのようなことになってしまったのだ。

 もっとも、今ではそれで困ることは無い。心臓を患う前までは貧血ということも無く、朝が苦手ということも無い(もっとも、万年寝不足の状態が続いているので眠いのは確かだが)。とは言っても、おそらく20歳から25歳にかけて血圧が急速に低下した頃は、かなりの低血圧症状に悩まされた。特に鬱気味の症状は辛かった。だから、調息に偏りすぎるのは注意してもらいたいと警告しておきたい。要はバランスの問題なので肉体や精神の状態と相談しながらチャレンジしてもらいたいと思う。

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2006/04/12 23:52|山術房:瞑想TB:0CM:8
 

潅仏会と瞑想 

 昨日4月8日はお釈迦様の誕生日とされている。それで各地では潅仏会とか仏生会などが行われる。実際には旧暦なので本来なら今年は5月5日に行われるべき行事である。

 

 お釈迦様の誕生日は瞑想家にとっても特異点とされている。お釈迦様の誕生日に最も近い満月の日(今年は5月13日)に瞑想を行うと、清浄な天の波動を受けて瞑想がはかどり神秘的な体験をしやすいといわれる。

 本当かどうか確証は無いが、私が様々な神秘体験をし始めたのが、ちょうどその時であったので私に限ってはその通りだったといえる。

 瞑想は私の日課であったが、なかなか進展せずに方法が悪いのかと悩んでいた。一通りの瞑想をおえて一休みしていると、その日は満月で月明かりがとても綺麗だった。鱗雲がゆっくりと流れており、月の青光を反射して幻想的な雰囲気をかもし出していた。

 しばし、その様相に見とれていると、その満月の方から女性の美しい声が聞こえてきた。その女性は後になって分かった私の前世の名前を数度呼び、一週間後に印を立てますと言った。その時はすっかり忘れていた一週間後、私は友人宅で誕生祝の宴会に参加していた。

 ほろ酔い加減で良い気分になった私は、友人のベットに腰掛けて少し目を閉じる。すると、目の前にどこかの島が揺れている情景が見えてきた。地震だと思った私は友人に催促してTVをつけてもらうと、佐渡で地震という速報がちょうど流れた。私はそこで始めて一週間前の出来事を思い出し、あの女性の声が真実であったことを知る。

 

 それをきっかけに私の瞑想はかなりのスピードで進展してゆくことになった。そのような訳で、私の体験のみで言えば、確かに瞑想家にとっては重要な日であると思う。おそらく満月そのものが何らかの影響を精神に与えるものであろう。もし、関心のある方がいれば、試しにチャレンジされてみてはいかがだろう。

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2006/04/09 17:01|山術房:瞑想TB:0CM:5
 
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