最近はそれほどでもないが、昔は結構瞑想をよくしていた。特に太陽の瞑想が好きで我流の日輪観が多かった。昔から太陽は大好きで幼少の頃はじっと太陽を直視していると、その太陽が緑色に変わるのが面白く、事ある毎に太陽を眺めていたのを思い出す。今にして思うとよく失明しなかったものだとぞっとする^^;
それでも懲りずに真夏日でも原っぱに寝転がって、よく昼寝をしたものだ。暑くて全身汗が吹き出ているが、それでも太陽の光を浴びるのは心地よかった。
そんな風だから、私が瞑想に入る導入編はいつも日輪観だったわけである。ちょうどおでこのあたりに太陽をイメージし気の向くままそれを眺めていると、次第に太陽は大きくなってくる。いつの間にか自分の身体を包むほどに大きくなる頃には、全身がぽかぽかと暑いくらいになる。そのせいか私は真冬の外出時でも四枚以上は着た事がなかった。
今では温暖化のせいか北国といってもかなり暖かくなった。それでも、子供の頃はマイナス10度は結構当たり前にあったのだが。Tシャツとワイシャツ、それにベスト。外出時はジャンパーで十分事足りた。
特段寒いときでも、ゆっくりと呼吸をしてリラックスすると身体が温まって平気なのである。寒い寒いと肩をすぼめて小さくなる人がいるが、そういう緊張した体勢は寒さに向かないと今でも思う。
さて、そんな夏のある日、夕焼けを見ながら散歩をしていると不思議な現象に出くわした。ちょうど太陽をおでこに置いて座禅を組んでいる人が見えてきたのである。立派な王冠をつけていたので大日様だと思いつつ、ちょうどそちらのほうへと向かって歩いているうちに、どうも顔が変だと気が付いた。何が変かって、その顔はどう見ても自分の顔になっていたからだ。
まさか自分が大日様だとは夢にも思わないし、今でもそんな大それたことを言うつもりは毛頭ないが、その出来事はそれからというもの随分と長く続いた。当時は様々な神秘体験を重ねていたときだから、そんなこともあるのだろうと思っていたのだが、大日様の力を受けてか益々数が増えていった。
当時、私の家から夕日の方向には三戸という友人達の町があるのだが、その友人達がお前昨日はお日様になっていただろうと言われることもしばしばだった。ちょうど私が大日様を見ていたときに、友人達も気付いていたらしかった。時間的にも全く一致していたので、面白いシンクロもあるものだと感心したものだ。考えてみると、こういうシンクロはこのときを境に増えたような気がする。
共時性といえば聞こえはいいが、要は精神感応だと思わざるを得ず、人の心が深いところでつながっていると確信を深めた体験である。だからありがたいことに「全ては一つ」だと、何の抵抗も無く信じるに至った。
友人などが泊まりがてら私の部屋に遊びに来ると、部屋の四隅には光の柱が必ず立った。最初は光っていると思っていただけだが、それがどうやら四天王のような守護者であると気が付くのに、そう時間はかからなかった。
私達の話題はいつも真理についてで、一般の高校生が話す話題は全くといっていいほど出なかった。夏休みというせいもあり、随分と遅くまで話し込むことが多かったが、その光の柱が立つときは全く疲れず眠気もささなかった。それが一般的な話題になると、途端に光の柱は消えて、どっと睡魔が襲ってきたのだから、これもなかなか面白い体験だった。
真摯な話題では必ず天が支援してくれる。私は今でもそう思っている。
そんな体験を続ける中、私はいつものように散歩に出て太陽を抱く自分を見ていた。それがいつもに増してリアルだったからか、すぐに私は瞑想をしなければならないと感じた。
急いで家に帰ると部屋に篭って胡坐を組み、座り始めた。いつもなら導入編から入るのだが、この日はすぐに気持ちが落ち着いて、ちょうど覚醒と眠りの中間地点に到達した。もっとも、そこに到達すると意識がスーッとスッキリとして頭の中に宇宙が見えてくる。その状態でしばし味わっていると目を閉じているのに周囲の様子が見えてきた。
部屋の壁がガラスのように透き通って家の外まではっきりと見える。家の前にある道を走り抜ける車、人。。。猫^^;
もっとも、それが本当かどうか確認のしようが無いのだから本当の所はわからない。
それは初めての体験だったので、些か興奮しそうになったが、興奮すればすぐに終わると思い、とにかく気持ちを一定に保って静かに観察することにした。
すると今度は自分の体がグーッと大きくなり始めた。家の壁を突きぬけ、どんどん体が拡大して行くのだ。やや下を見ている私の目の前に、遥か下方にある自分の体が映った。
街並みがずっと小さくなり、私の住んでいた青森県が全望できた。気が付くと私の頭は雲を突きぬけ、胸の辺りを入道雲が動いている。丸い地球の地平線が殆んどボールのように見え、東北六県と北海道が視界に納まった。
あちこちにポツリポツリと光る点が見えた。光の大きさも色も、輝きの度合いもそれぞれ、一点一点異なっているが、大地を覆う光点のネットワークのように見えた。その中の一点に意識を移動すると顔と同時にその人の一生らしきものが見えてくる。今抱えている悩み、そしてその原因、その人の心の中のつぶやき、、、、それらがちょうど映画の映像を重ね合わせたように出現するのだ。過去、現在、未来の映像が折り重なるように見えるが、その一つ一つの映像はそれぞれきちんと識別できた。
一枚のスクリーンにいくつもの映画を映しているのに、一つ一つの映画をそれぞれ別々に見ているかのように解るのである。そして時間の筋が過去から未来へと流れてゆく。。。
あちらこちらを意識を動かすと、それに応じて様々な人の人生が見えてくる。一人一人を見ることを止めて、意識をスーッと引いてより大きな枠をイメージしてみた。。。
と同時に、頭の中に、多分その視界の中に入っている人たち全てと思われる人々の声が聞こえてきた。喜び、悲しみ、叫び、、、私の頭の中は一瞬にして数え切れない人たちの言葉で埋め尽くされたのである。勿論それは、瞑想中の幻覚だったのかもしれない。私自身、リアリティーはあったものの幻覚ではないという確信は全く無い。どの様なものかも未だに理解できてはいない。
多くの人の悩み、苦しみ、悲喜交々の思いが入り混じって私の頭の中も引き裂かれそうになったが、気持ちを落ち着けると、それでも、全体としてバランスが取れていると気が付いた。
私たちは悩みや苦しみ、喜びや楽しみに右往左往しているが、それは見かけだけなのだと思う。勿論、それらは渦中にある人にとっては重大事だし、身を焼かれる思いで過ごしていることだろう。でも、私たちはその深いところで、全てを理解し、その人生経験を見守っている。
人生経験が一人一人違うとはいっても、その人生経験は一人では作れない。仲間役、敵役、仲介役、、、と、様々な人の支えがあって、その人生は演出されている。そのことに気が付くのは難しいかもしれないが、それでも、私達の人生は造られているのだと思う。
だから、ちょっとだけ視点を変えると、その人生は新しい役をもともめて、新しいステージに移ってゆく。多くの人はその新しいステージの一歩手前で踏み止まっている。本当にもう一歩前に踏み出すだけで、人生は変わってゆくだろう。
多くの人の人生を垣間見て、一人物思いに耽っていた時、階下から私を呼ぶ母の声が聞こえた。「ご飯だよ〜」って^^;
気が付くと既に2時間以上も過ぎていた。私の中ではちょっとした時間でしかなかったのに。。。
同じような体験はそれから10年以上もたった頃にもう一度体験することになるが、今でも、あれはなんだったのだろうと思う。。。
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