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趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

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Author:やわたうま
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地区イベント 

 当地区主催のダム湖ウォークが開催された。毎年、春と秋の二回行われるイベントで、地区外からウォークの会らが参加する。

DSCF1298.JPG

 今日は雨の予報ということで参加者も限られていたが、それでも100名程の参加となった。一周13.6kmのコースで、途中に休憩を入れ約3時間ほどとなる。ただ、起伏が結構あるのでなかなか体力を要する。

 シルクロードを歩く会のメンバーがサポートを担当して下さった。彼らは数年に分けて中国からゴビ砂漠を歩き、今年ヨーロッパ入りをする予定である。

 私たちは彼らの食事やみやげ物の製造販売を担当している。手作りの豆腐や手打ち蕎麦、山菜料理などが本日のメニューだ。

 

 このダム湖は十和田湖、秋田の八郎潟に伝わる竜神伝説発祥の地である。この竜神は八の太郎といって元々はとても親孝行な若者だった。それがある日とても美味しそうな岩魚を三匹釣ってきた。八の太郎は両親の帰るのを首を長くして待っていたが、なかなか帰ってこない。

 一日の農作業を終えてお腹のすいていた八の太郎は、自分の分だけ先に食べて待っていようと思ったが、あまりの美味しさについつい両親にとって置いた岩魚も食べてしまう。するとその夜、八の太郎は焼けるような喉の渇きを覚えて川の水を飲み干してしまうほどの勢いだった。

 ふと、川面に移った自分の姿を見ると、そこには変わり果てて竜神となった自分の姿があった。竜神となった八の太郎は川の水を堰き止め自分の水場を作ろうとしたので、村人たちが南宗坊という修験者を頼んで追い払われてしまう。八の太郎はその後、十和田湖、八郎潟と水を求めて放浪の旅にでたと伝えられている。

 

 奇しくも、堰き止めようとした川には現在ダム湖が出来、近隣住民の憩いの場となっている。 近くにいらした折りには自然豊かなダム湖周辺の散策でもいかがだろう。

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2006/04/30 23:16|雑記TB:1CM:6
 

竹島問題 

 今月にわかに竹島問題がクローズアップされている。領土問題に絡み複雑な問題であるが、これは占術的に見てどうなのだろう。

 朝鮮半島は東京から見て西の方位に当たる。今年五黄殺の巡る方位である。再び注目を集めた今月も三碧中宮月なので西は五黄殺に当たる。

 西は兌宮だが、これは口論を表す宮で時には刃傷沙汰を示すことがある。また五黄殺はずばり戦争を現す星でもあり、これが年月の両盤で出るというのはあまり宜しくない。すぐに戦争と考えるのは勿論早計だが、このような悪気が掛っている時に動きが生じるということ自体、相当に危うい気配を含んでいるということである。

 奇門遁甲の年盤では天地盤は壬−癸で「道徳心を失い、正常な判断が出来なくなる方位」、八門は死門という凶門。月盤では天地盤は甲−壬で「物事が座礁する方位」、八門は傷門という凶門である。

 五黄殺自体が動けば自ら災いを招くことになる方位だから、今動くべきではないと思う。

 

 韓国側から見れば、日本は反対側の東になるので年月盤ともに一白水星の暗剣殺となる。一白には困難、悩み、隠し事という意味がある。震宮は「声あって形なし」なので、追い詰めても日本は何もしないとタカをくくっているのかもしれない。

 しかし、韓国側が東の日本に働きかけるということは自ら暗剣殺の象意に飛び込むことになるから、彼の国にとっても決して宜しいことではない。

 東の遁甲版は年の天地盤が己−戊の生門。月盤は己−乙の驚門である。韓国側から見れば多少驚かされることはあるが、一過性であっても最終的には落としどころを得てうまい具合に利益を引き出せるということになる可能性が大きい。

 

 これは、日本にとっては面白くない話だが、今は動くべき時ではないだろう。また今後も今年のような悪気の重なる時期に同様の問題が生ずるようなら、その時こそ重々注意しなければならないのではなかろうか。

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2006/04/27 17:01|卜術房:遁甲TB:0CM:8
 

カルマ考 

 カルマという言葉自体はサンスクリット語の『行為』を表す動詞からきている。単純に言えば何らかの行動をすれば、その結果を受け取るということだ。仏教的に言えば思業、身業、口業の三つからカルマが生じることになる。 これを「三業」という。

 言ってみれば自分の行ったこと、言ったことの結果を受け取るという意味だから至極当然の話だ。ただそれが思いや考えにまで及んでいるという点が異なるといえるかもしれない。しかし全ての行動や言葉が、その人の思いなり考え方から出てくるということだから、これとて突飛な話ではない。

 しかし仏教では幸不幸の原因があってもストレートに結果には至らないと教えている。原因が結果となって現れるためには「縁」が必要で正確には「十二縁起」として規定されている。が十二縁起の根本は「無明」で、簡単に言えば仏法とか真理を知らないということだ。

 だから先祖の祟りとか霊障という考え方はここにはない。しかし「縁」という言葉が民間解釈で、理由のない不運の原因を先祖や神様の祟りとして解釈したのではなかろうかと思う。単純に「縁」といって一番近しいのは身内なのだから、そのような解釈に至ったのだろう。

 

☆ カルマの第一は私たちの考え方、思いそのものであるということ。

    正しい考えは良い結果をもたらし、間違った考えは悪い結果をもたらすということだ。

 

 それではカルマと霊障の類はまったく無縁なのかというと、そうとも言い切れない。三業の中で最も重要なのは「思業」である。全ての行為と発言は、心の中の考えから発するからだ。

 私たちが考え思うことには力がある。波動といってもいいかもしれない。教条的に言えば「類は類、友は友を呼ぶ」という「類友の法則」だし、物理的に言えば「同調の法則」とか「共鳴の原理」である。

 私たちの思いはある種の波長となって表れる。いわゆるフィーリングが合うというのも思いの波長が似ているということだ。そして、似たもの同士は引き合うのだから悪くすれば、これが未成仏の霊を呼び込んでしまうこともあるだろう。それがいわゆる霊障であり、一般的に言われる因縁ということになる。

 

 霊の側が意図的な憎しみなどを持っていない限り、未成仏霊といえども障りを成すことはないだろうし、あったとしても一過性のものだと思う。しかし心の波長が霊の側と同じであると様相は一変する。波と波が重なると大波になるように、生きている側の心の波長と未成仏霊の波長が重なると高波となって生きている人を襲うのだ。こうなると思念力は現実化するほどの力を持つようになる。

 それでも霊の側だって障りを起こそうなどとは思っていないだろう。ただ、似たような波長にいつの間にか引き寄せられ、そこから離れがたくなっているだけなのだから。私達が気の会う仲間といつも一緒にいたいと思うのと同じだ。

 だから、お払いや除霊と称して自分達が勝手に引き寄せた霊を、これまた勝手な都合で追い払うというのは、はなはだ失礼な話で、除霊したがために逆に霊の怒りを買うということだってある。こうなると多少の霊能力者では歯が立たない。相手が霊とは言っても同じ人間なのだから礼儀を尽くすのが当然だろう。

 従って緊急時なら多少強引に離れてもらわなければならないこともあるだろうが、正当な除霊とは自分の心、考えを正して、心の波長を整えることに他ならないと思う。

 

 では霊の側からはどのように見えているのだろう。基本的に霊の世界も思いの世界である。肉体がなくなった分純粋だ。そしてもし、悩み、迷っていて自分でどうして良いか分からないとしたら、私たちだって誰かに相談したくなるのではないだろうか?

 ところが霊の場合、知人はとおに他界しているケースが多い。天国にいる知人に相談できれば良いが、あまりにも波長が違いすぎてなかなか難しい。となれば未成仏霊は現世の人、しかも自分の悩みを分かってくれそうな人に頼るしかない。その際、血縁というのは非常に重要な要素になりえるわけである。

 私たちだって、遠くの親戚より身近な他人とは言うが、その知人が誰もいなければ親戚を頼ることになるのではあるまいか。霊の世界も、私たちの世界もそう違ったことはない。

 頼ってきた霊は一時的な憑依状態になっている。たぶん憑依された方は気分が落ち込んだり、短気になったりするだろう。しかし注意して調和の取れた心の状態を保つなら、逆に憑依した霊が感化され気づきやすくなる。心の法則で霊は同じような精神状態や悩みを抱えている人に引き寄せられるので、憑依されている側が気づき、自分の心を正すと、霊も感化され自分の間違いに自ずと気づくのである。

 

 そのことを知っている霊能力者は、あなたには霊が憑いていますとか、先祖の因縁ですなどとは言わないと思う。先年亡くなられた私の知り合いも決して口には出さなかった。除霊をお願いに行っても必ず世間話で終わり霊の話は一切しない。終始世間話なのだ。

 しかし、その世間話の中で、その人は聞き手に回る。悩みや苦しい胸の内をとにかく聞いて吐き出させる。そして、それとはなしに、憑依の原因になっている間違った思いに気づくように仕向けるのだ。もちろん、その間中その人は調和の取れた思念を送って、見えない感化を呼び覚ましている。自分も調和の取れた人間ではないから、神仏にお願いして良い気で包んでもらうといっていた。そうすると、霊が涙を流し、吹っ切れたように去ってゆくらしい。

 

 さて、だいぶカルマから話がずれてしまったが、全ては私たちの思いに秘密がある。思いには一定の波動があり、波長が通ずるもの同士を引き付ける力がある。これは霊ばかりではない。現実もそうなのだ。

 成功する人は成功する波動を持っているし、いつも失敗している人は失敗するに足る波動を発している。その波動が現実の出来事をも引き寄せる。これがカルマだと私は思っている。もちろん、その波動は私たちの心から出てくるものである。

 私たちは生まれ変わっても考え方や心の癖までは直らない。あの世に行ってたとえ地獄に落ちたとしても、いずれは思いや考えを修正して必ず天国へと上がってゆく。だから一度は正しい考え方を身に付けている筈なのだが、肉体を持つことで引きずられ、もとの間違った考えを繰り返すこともある。そうなると、前世と同じような出来事を引き寄せるというわけだ。

 だから、現象はどうであれ、私たちが自分の思いと考えを正して行かない限りカルマはなくならない。カルマは前世などという手の届かない世界にあるのではなく、今ここにいる自分の心の中にあるものだ。だからこそ私たちの心がけ一つで、今すぐにでも変えようがあると思う。

 ぼちぼちと、私たちも自分の心に責任を持たなければならない時に来ているのではなかろうか。

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2006/04/26 15:55|心象房:霊学TB:0CM:10
 

天国紀行No4 

 農作業の村の様子を前回書いた。他にも様々な村があるが、どの村も現世の様子とさほど変わりはない。特筆すべき特徴はといえば、この世界が思いの世界であることを実感させる出来事に満ちているということだろうか?

 住人たちは互いに言葉で会話をしていると思っているようだが、よく観察してみると以心伝心で会話をなしているとしか思えない。というのも話の内容は聞こえるというよりも感じるといった方が正確だからだ。

 また彼らは必要だと感じるものがあれば、それが即座に目の前に出現する。それを不思議に思っていないというのが私から見れば奇妙なのだが、心の法則からいえば至極当然なことではある。

 

 一連の特徴を考えて、神秘学的な観点でいえば、ここの世界は幽界とかアストラル界と呼ばれる世界だと思われる。私たちの精神は主に三つの機能からなっている。それが『知(知性)・情(感情)・意(意志)』であるが、ちょうどこの世界は情に相当しているようだ。

 そのため、どの住人も感情豊かで明るいし豊富な感性を持っている。 彼らは生きていた頃の趣味志向に応じて生活をしているが、その生活の中で自然に神性を感じ取るようになっている。これはどの階層に行ってもそうで、特に上のほうの世界に赴くにつれて神との一体感は増してゆく。

 この世界の一角に妖精たちの住む場所がある。といっても妖精はその区域に限らずどこにでもいる。なぜなら彼らは『生命力・命のエネルギー』の運び手だからだ。だから、妖精のいないところはない。もし、彼らがいなくなれば、そこはすぐさま死の場所になるだろう。しかし、彼らだって行きたい所とそうでないところは当然ある。命とは神そのものだから、その運び手である彼らはとても純粋なのだ。当然、病んだ想念のあるところを敬遠する。

 

 私はある日深い森の中に迷い込んだ。しっとりとした空気がとても心地よい場所だった。森は青々と繁っており、木の実は現世のそれより何倍も大きい。だから、何かの童話に出てくる話のように自分が小人になったようだった。

 そのような森をいくら歩いても同じところを巡っている事に気づき、一休みするためにある大木の根元に腰を下ろした。その大木の前には小さな小川が流れていて幅2mほどもあるだろうか?

 どうやってここを出たものかと思案していると、後ろから『珍しい客人だ』と声が聞こえた。はっと思ってあたりを見渡すが誰もいない。空耳だと思って小川の流れに見入りながら思案すると、また先ほどの声が聞こえる。そんなことを数度繰り返してようやく自分の周りの異様さに気が付いた。

 というのも妙に空気が歪んでいるのである。なんだろうと思って手を伸ばすととても柔らかいものに触れた。感触が女性の身体のようだったので、はっと思って目を凝らすと、半透明な美しい女性の姿が見えてきた。天女のような衣をまとっているが、気をそらすとすぐに見えなくなりそうで油断できなかった。

 その女性が見え始めると、先ほど見入っていた川の中にも美しい女性の姿が見える。こちらも小川の小波がちょうど女性のように見えるという感じだが、確かにそこにいるとわかる。頭の上の方から『人間だ』と聞こえてきたので上を見やると腰掛けていた大木の節々が老人の顔に見えた。その老人が『人間だ』と一言言うと、次々に『人間だ!』と声が聞こえてきて、辺りが一気に騒がしくなった。

 

 私が人間だとわかると、その妖精たちは一気に離れ距離を置いた。特に風の妖精は私から距離を置いて『臭い』といわれた。タバコの匂いが嫌いらしいとすぐにわかった。私が人間だとわかっても離れずにいたのは大木の精と大地の精だけだった。もっとも彼らは動きようがないのかもしれないが。。。その他の妖精たちは遠巻きに私の様子を見ている。

 しばらくの間彼らに観察された後、大木の精が話しかけてきた。彼は『この世界に来るくらいだから、無害なのだろうが、私たちは人間が嫌いなのだ』と。ずっと昔は人間と仲の良かった時もある。その頃は人間は自然を敬い、純粋だった。しかし昨今は彼らの仕事の邪魔ばかりをする。それで、人間と見るといぶかしむ妖精たちが増えたのだといっていた。

 妖精の仕事は命あるものに命を届けることで、たとえ石といっても命はあると語っていた。つまり、この宇宙に命の無いものなどないということらしい。その命を人間は利欲のためや無思慮のために粗末にしすぎる。もっと感謝と慈しみの気持ちを持ってくれれば彼らは自由に仕事ができ、豊かな作物や心地よい空気、清涼で神気に満ちた水を届けることができるのにとぼやいていた。

 人間の肉体だって、彼らの協力なしには生きることができない。私たちがこうして生きているということは、彼らが命を運んできてくれているからだ。

 その時、彼らは自然に対する接し方を変えないと、人間は大変な目にあうだろうと大木の精が言った。この夢を見たのが1980年頃だから、まだこの頃は環境破壊という言葉も一般的ではなかった頃だ。

 

 しばらくの間話し込んでいたが、ふと遠くに見える山が気になった。この緑豊かな妖精の国に似つかわしくない山だったからだ。見るからに火山にしか見えない岩肌のそれが気になり、彼らに聞いてみると誰も答えなかった。誰も答えてくれないので、その山に行ってみようとすると水の精に制された。

 彼女?は言った『おやめなさい、あそこは生きている人間がいける場所ではない。火の精霊が住んでいるが彼らは不浄を嫌うから』と。私たちの文明は火と密接につながっている。しかし、その火は工業化によって自然破壊の立役者になってしまっている。車のエンジン、ガスコンロの火、タバコの火、、、どれも、環境を破壊する張本人といえる。そのせいで、同じ妖精の仲間でありながら火の精と他の妖精たちは一線を画するようになってしまったのだ。もちろん、それは火の精たちの望むところではない。しかし、人間が無思慮に火の力を使うようになって、彼らは否応無くそれに使われ、立場を失っているのである。それだけ彼らの人間に対する怒りも大きい。私は忠告を聞き、その山に行くのを見送った。

 

 この夢を見てからしばらくたった頃だ、私は家内と近所のスーパーに買い物に行っていた。そのスーパーの一角に花屋さんがあるので、買い物の間そこで花を愛でながら待っていた。すると植木鉢の影に小人が見えた。周囲の買い物客を恐れているかのように、鉢の影からこっそりと私の方を見ている。

 ゆっくりと近づいて様子を伺ってみると、緑色の背広を着たピーターパンのような格好をしたコロボックルだった。人間界に現れるために正装をして来たようで、彼は背広姿が正装だと思っている。わずかな時間であったが、彼は他の妖精たちのメッセージを預かっていた。後にも先にも現実に妖精を見たのはそれが最初で最後だが、その後くらいに環境破壊とか、オゾン層という言葉が世間を騒がせ始め、私はキャンプに傾倒するようになっていった。

 もう一つある。これは声だけだったが。私の住んでいる地域は雪国だが、時節はずれの大雪が降ったことがある。ふと夢で見た妖精たちを思い出しながら雪道を走っていた時、深々と降り積もる雪の中から声が聞こえてきてこう言っていた。

『氷はね、角から溶けてゆくんだよ。人間もそうだといいね』

・・・続く

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2006/04/25 22:13|心象房:霊学TB:0CM:6
 

とても私的な話 

 天国と地獄紀行、ありがたいことに多くの方から反響を頂いた。過分な反響を頂いて、何故こんな夢を見たのだろうと改めて考えてみると少なからず心当たりがある。とても私的な話になってしまうが、私としては子供達のためにも是非遺しておきたい話なので御容赦願いたい。

 

 私の家系だが、私で37代目になり結構古い家系にあたると思う。家のすぐ近くを昔大名行列に使われた国道が走っているが、その国道付近の土地は10Kmほどに渡り当家の土地だった。だったというのは4代前の先祖が借金の形に全部売り払ってしまったからだ。おかげで今では山のような借用書しか残っていない。

 母の子供の頃は大きなつづらに七つほどの刀や鎧兜もあったというが、鑑定のためにと持ち出されて行方知れずになった。僅かに残っていた日本刀も時の当主が夜な夜な振り回すので近くにある氏神様に奉納した。だから、その手の貴重なものも今は全くない。残っているのは結構有名な武将からの書状が少しだけだ。

 先祖の名は「三之助」といって七代に渡って襲名されていた。この地の殿様にも何代にも渡って奉公してきたようで藩史にもその名が残っている。しかし元々は藩士ではなかったようなので、それだけの広大な土地を許されていたのだろう。

 明治の初期の頃まで、我が家では獅子舞を忌む慣習があった。正月になると獅子舞が各家を訪問して歩くが、我が家では決して入れなかったのだと聞く。理由は刺客に狙われるからだそうだ。理由が定かではないのだが、獅子の下に隠れた刺客に命を奪われた先祖がいたらしい。

 私の地域は平氏の落人で有名なところで、京都方面の地名を冠した苗字がとても多い。私の家は何度か苗字が変わっており、今はごく普通の苗字になっている。しかし初代は藤原氏ゆかりの者だった。もしかしたら平氏の落人の地区であったことと、その刺客の事が関係しているのかもしれないとも考えるが定かではない。

 

 ところで、私が関心を持っている分野が幾つかある。並べてみると、武術、兵法、占術、神道、心霊(精神的なものという意味で)、歴史、科学などである。

 自分の家系が藤原氏の流れを汲むのは高校生の頃から知っていたが、家系の詳しい内容を知ったのはずっと後だった。だから、自分の関心ごとと家系が関係があるなどとは露ほども思わなかった。だが年を長ずるにつれて改めて考えてみると、私の家系と自分の関心ごとは密接な関係があったのである。

 藤原氏の始祖はアメノコヤネの命であるが、これは天照大神の御世の神官である。天照大神が岩戸にお隠れになった際に、岩戸開きをした立役者だ。そのせいだろうか、時おり私の母は巫女的な仕事をさせて頂いている。また私の妻も巫女の家系だ。

 

 以前ロウワイズさんとの話にも出た武内文書などの中に「九鬼文書」というのがある。偽書の扱いを受けているが、その九鬼文書は多くの体系からなっており、甲冑術、剣術などの武術、忍術、占術、神仙術などが網羅されていて同時に歴史書・科学書でもある。佐々木小次郎の秘剣つばめ返しや、源義経の八艘飛び等の技の出所も、この九鬼文書だといわれる。私の関心事がそのまま詰まったような文書であるが、その九鬼文書と藤原家は深い関係にある。

 天国・地獄紀行を書いていて改めて振り返る機会を頂き、初めてこのことに気が付いた次第。不思議な縁を感じざる得ない。

 

 もっとも藤原氏はとても大きな豪族であったから、家系を遡ればどこかで関わりも出てくるだろう。しかし、その藤原氏の家系が何故こんな僻地まで落ちてきたんだ?と思っていたから、自分の家が藤原氏の末裔だとは長いことにわかに信じていなかった。

 ところがある日夢の中でこう告げられたことがある。

 夢の中で私は、そう高くはない山の中腹にいた。獣道のような山道があって、その一角に小さな社がある。そこをお参りすると、今度は平野部の山寄りの村落の一角にそう大きくはないお堂があって孔雀が祭られていた。私は夢の中で孔雀明王か、、、と思って参拝していると『1080年待った』と言われ目が覚めた。

 調べた限り藤原氏と孔雀明王の関係はそう深くはないと思っていたので気にも留めなかったが、最近改めてその年代を調べる機会を得た。私は自分の関心事に合わせた年表を手製で作成している。おかげで4000件ほどのデータが入っているが、そのため逆に全く気付かないでいた事件があった。

 私の生まれた時から1080年を遡ると西暦800年後半になるが、この時代藤原氏が陸奥の地方を訪れていた。藤原保則の蝦夷平定である。先祖たちが平均20歳で結婚し、50歳まで生きたとし1代は30年とすると、私で37代だから37×30は1110年となり、ほぼ一致する。

 余談だが私の姓名総画数も37画だ。また私に無二の友がいるが、この友人も平泉藤原三代の頃の家老の家系だと聞いて、平泉の藤原と京の藤原にどのような関係があったのか詳しくはないが、同じ藤原で繋がるとは不思議な縁だと思ったことがある。

 

 話が前後するが、近年、例の九鬼文書と深い関係があった教団が存在する。出口王仁三郎らが率いた大本教だ。一時期私は彼に深い関心を持ったことがある。勢いあまって10万以上もする氏の『霊界物語』という本を購入した。もっとも、この本は読む機会に恵まれず初巻に目を通しただけの有様だが。

 また、大本教の幹部だった成長の家の教祖、谷口雅晴氏はマーフィーの願望実現を教義にも取り入れ、日本に最初に紹介した人物だったと書いた。実は私もそうとは知らずに、10年以上にわたりマーフィー氏の願望実現を研究したことがある。

 

 30代に入った頃から、私は自分の考えたことや研究した内容を子孫に残したいと思うようになっていた。その内容の一片がこのブログなのだが、上記の事らを改めて考え合わせると、知らず知らずに一つの方向に向かって引き寄せられてきたのだと感じざる得ない。恐らく、あの世の夢物語りも、それに繋がってゆくことになるのだろう。

 ただ、このような話を書くと、先祖の遺徳を得て導かれていると思われるかもしれないが、私は逆に感じている。家系が古いということは、それにまつわる様々な業が否応なく付いて回る。先祖の業で子孫が苦しむというのは変な話だと思われるかもしれないが、実際のところ血脈に関わる因縁はそう軽くはない。

 だから、私がこのような記録を残したいと願うようになったのも、因縁の解消という先祖代々の悲願によって動かされているのではないかと思うことすらある。それなので、私にしてみればこの作業は先祖への供養のようなものなのだ。合掌

2006/04/23 22:17|心象房:霊学TB:0CM:14
 

移動する北極星 

 現在の北極星はこぐま座のalpha星である。地球はコマのように首振り運動をしているから、約25800年周期で少しずつ極が移動している。だから4000年前には北極星は竜座にあった。あと12000年もするとその北極星も琴座に移る。

 

 ギリシア神話における竜座はヘラクレスに退治された竜のことで、西の果てにあるとされたヘスペリスの園を守っていた。その園には黄金のりんごがあって、ヘラクレスの11番目の冒険は黄金のりんごを取ってくることだった。ヘラクレスは途中カウカソス山に繋がれたプロメティウスを助けることになる。そのプロメテウスがりんごはアトラスに取りに行かせろと助言したので、自分が竜を倒しりんごをアトラスに取りに行かせたという神話だ。

 カンの良い方は一読して聖書の創世記に出てくるエデンの園の物語を思い浮かべることと思う。プロメティウスは人間に火をもたらした張本人で、その罰として上記の山に貼り付けにされ大鷲に内臓を食べさせるという拷問を受けている。この話もイエスの磔刑を彷彿とさせる。

 火は古来から精神や、知恵の象徴とされてきたから、後に黄金のりんごと火の知恵が結びついて聖書のような記述になったのかもしれない。

  紀元前1200年頃北極星は竜座にあったというから、ちょうど創世記が編纂された年代とも一致する。モーゼの出エジプトがおおよそ、その頃の出来事とされるから、創世記の時代と竜座の時代は一致していることになる。しかしそれが後のキリストの姿とダブルのはなかなか興味深い。また、りんごを取りに行ったアトラスとは天を支える巨人であり、イエスの信じた天の父ともリンクしていると思えてしまう。東洋で竜神信仰が現れたのもこの頃であろう。

 

 現代はというと、こぐま座の由来はゼウスが森の妖精カリストと浮気をしたことに始まる。ゼウスの妻ヘレンは嫉妬からカリストを大熊の姿に変えてしまう。そのカリストとゼウスの間にはアルカスという子供がいたが、その子が成長したとき森で大熊に出会った彼は、母親の変わり果てた姿とも知らずに矢で射殺そうとする。それに悲しんだゼウスは親子ともども熊の姿に変え天の星にしたが、その小熊が現在の北極星なのだ。

  この神話から環境破壊の現状や、親と子が争う現代の姿を彷彿するのは私だけだろうか?

 

 では12000年後の琴座の神話はどのようなものだろう。琴座のベガは日本や中国では御存知「織姫星」のことである。天の川を挟んで年に一度しか会えない二人であるが、その由来にちなんで12000年後は愛の時代が来るのかもしれない。でも、悲恋の時代にはならないように祈りたいが^^;

 ところで、琴座の琴とはギリシア神話ではオルフェウスの物語に由来している。オルフェウスは竪琴の名手で、その竪琴は太陽の神アポロンから贈られたものだ。彼は愛する妻エウリディケを失うが、悲しみのあまり妻を取り戻そうと冥界を訪れる。しかし、後一歩のところで失敗し、その悲しみのあまり死んでしまう。それを哀れに思ったアポロンが彼に贈った竪琴を天に引き上げたのが琴座なのである。

 皆さんは12000年後の世界をどのように想像するだろうか?

 

 12000年先まで行かなくても現代は水瓶座の時代といわれる。これは、例の歳差運動によって25800年をかけて春分点が移動することによる。25800年を星占いの12星座で割ると約2100年となって、現在は水瓶座に春分点が来ているという次第である。だから占星術的にはこれからの約2000年は水瓶座の影響を受けると考えられている。

 その水瓶座の神話はというと、、、ちょっと長くなりますが。。。

 ある時、地上で暮らしていた神々の殆どは天上界へと帰ってゆきます。そのため人心は荒廃し、それを見たゼウスは人々を滅ぼそうとします。しかしプロメティウスの息子デウカリオンと妻のピュラは心正しかったので箱舟を作らせ彼らを助けます。

 大雨による洪水で人々は滅びますが、箱舟に乗ったデウカリオン夫婦だけが助かります。二人はどうやって人類を再興させようかと考え、法の神テミスに相談します。するとテミスは母の骨をとって歩きながら後ろに投げよと教えます。二人は母の骨を投げるなど恐ろしいことは出来ないと悩みますが、母とは大地のことで骨とは大地の石のことだと気付きます。

 肩越しに石を投げるとデウカリオンの投げた石から男が、ピュラの投げた石から女が生まれ再び人類の歴史が始まったという神話です。そのため、水瓶座は水がめを担いだ女性?の姿で表されます。この水がめから流れでる水は浄化の水、知恵の水とされています。

 ところで、水瓶座の守護星は天王星とされています。天王星は科学、改革・革命、突発的な出来事、事故などを象徴する星です。その天王星の英語名は同じくギリシア神話の天空の神ウラヌスの名が付けられています。ちょっと不気味なのですが、実はウラニウムはこのウラヌスにちなんで付けられた原子名なのです。

 

 環境破壊によって地球温暖化が進行している現在、海面上昇は切実な問題になっています。これを形を変えた洪水と考えると、とても意味深な暗示が感じられます。皆さんはどう思われるでしょう。

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2006/04/21 15:39|命術房:占星術TB:0CM:3
 

天国紀行No3 

 夢なのか実際に行った世界なのか自分でもはっきりとしないところがあります。それに、多分見る人によってはもっと違って見えるのではないかとも思います。その辺を差し引いて読んで頂けるとありがたいと思います。

 また、徐々に上の世界に行くに従って私の表現力が追いつかなくなっています。中には表現不可能な世界もありました。そのため心象的な表現が多くなりますのでご容赦下さい。

 

 例のホールがある世界はとても広い。その山並みの向こう側へと向かった私は、果てのない広大な世界を垣間見た。その山並みを越えてすぐのところに兵舎のようなものが建っている。簡素なキャンプのようなつくりではあるが、結構な大所帯である。

 兵隊さんが大勢いるのかと思ったが、意外に医療関係のような格好をした人たちである。軍服とも白衣とも思われるような不思議な格好をしている。大勢の人たちが忙しそうに動き回っていてなかなか私には気付いてくれない。仕方なく様子を眺めていると、少し位の高そうな人が私に声をかけてくれた。意志が強くそれでいて慈愛に満ちた目が印象的である。

 そのキャンプの中央には広場がある。といっても単に芝生の広場なのだが、そこに大勢の人たちが集まって何かのレクチャーを受けていた。私は将校?に広場の一角に置かれている演台の所へと連れて行かれ、そして『話せ』といわれた。

 テーマも言わずに『話せ』といわれても何をどう話せばよいものかといぶかしんでも気持ちばかりが焦ってくる。何しろ端で見ていたときよりずっと人数は多く、千人近い人がこちらに注目しているのだ。話す内容も見つからずにきょろきょ見回すと、例の将校?は私が必ず話すと確信しているようで、じっと待っている。

 意を決して気持ちを落ち着けると、不思議と頭の中に話すべき内容が浮かんできた。詳細は省くが、こちらの世界が本当の世界で、今、皆さんはこちらに戻ってこられた。肉体世界とは勝手が違うが、こちらは思いの世界であるから、早くそれに慣れて信仰と奉仕の精神を思い出しましょうというような内容だった。

 これは、明らかに私の言葉ではなかったと思う。考えは一緒だが出所が釈然としない。後に私は霊界に居るもう一人の自分と出会うことになり、その時この理由が判明した。

 

 一通り話が終わると将校は付いて来いと合図した。演台には私に代わって別な人が立ち話を始めている。私もその話を聞きたいという気持ちになったが、将校に促されて渋々後に従った。

 連れて行かれたところは例の山並みにある洞窟だった。すでに数人が待機していて私たちの到着を待っていた。すると私たちの到着が合図でもあったかのように全員が洞窟の奥へと飛び立った。みな、軍人の格好をしているが眼を凝らすと白衣とダブって見えた。

 到着したところは幾度か来た地獄と呼ばれるところである。私たちの任務は自分が地獄にいると気付いた人たちの救済だった。救済といっても強制的に連れ出すとか、説得するとか、そのようなことは一切しない。何度も言う様だが本人自ら気が付くことが大切なのだ。それ以外は何の価値もない。

 だから、救済といっても、私たちが出来ることは『自力で気付くと信じること』だけなのである。肉体人間としての視点に慣れていた私は、これが殊のほか難しかった。私は見えるその人を『信じてあげよう』と躍起になった。しかし、それは殆ど功をなさなかった。

 何故なのだろうと他の救済者たちの気持ちを感じてみると、彼らは見える人ではなく神性を信じていた。

 私達は一つである。そして誰の中にも神性が宿っている。だから救済者が信じていたものは彼らではなく彼らの内なる神性そのものだった。誰の中にも宿っている神性、それがあるから人は自ら気付くことができる。救済者たちは自分の内にその神性を大なり小なり感じ取り、確かにあると確信している。だから、自分の中にあるものが彼らの中にあると信じるのはそう難しいことではない。

 

 もっとも、私がこのことに気付くまで2年近くかかっている。この記事で書いている夢を見てから、継続的に救済の夢を見るようになった。起きた時には覚えていないことも多いが、夢の中でとにかく気ぜわしい毎日を送っていた。天国なんかでのんびりとしているならまだしも、寝るたびに地獄に行っていたのでは正直身が持たない。いい加減うんざりしていたときに、ようやく気が付いたというわけである。

 私の他にも肉体を持って働いている人たちが数人いた。すっかり夢だと信じている人もいたし、この奉仕に借り出されていると分かっている人もいた。私もそうであったが、いずれの人も心のどこかで何か人の役に立つことをしたいと願っていた人たちだ。あの世には強制という言葉はないから、どれも自発的な行為なのだ。

 だが、気付いたおかげで、ようやくお役御免になった。それ以降はいい夢を見さて貰っている(笑)

 もし、自分はそれほど悪い人間じゃないと思うのに悪夢ばかり見るという人がいたら、扱き使われていると疑ってみるのも手かもしれない(笑)


 朝になると集落の人たちは村の中央にある広場に集まってきて一日の作業がはじまる。朝といっても太陽は真上にある。ただ朝だと感じているに過ぎない。不思議にこの手の夢で朝日とか夕日というのは見たことがない。太陽はいつも真上にあって、ただ朝だ夕だと感じているに過ぎない。住人たちはどうなのだろうと思うが、彼らはその時間感覚でいるようだ。

 その広場には様々な格好をした人たちが思い思いの農具を持って集まっていた。老若男女を問わず、いろんな人種の人たちがいるが、どの人たちも植物とか園芸が好きだという点で一致しているようだった。

 彼らは一度広場に集まると誰が合図をするわけでもなく作業に取り組んだ。集まった人たちはそれぞれに挨拶を交わし、それぞれに会話をしているが『始まる』という共通の思念が感じられた。

 

 農地に水を引くために水路を作っている者。作物を育てている者。農地を開拓するものとそれぞれであるが、彼らが共通した一つのビジョンを持って働いていることが感じ取れる。不思議なのは誰もそのビジョンを知らないということである。

 矛盾しているように思われるだろうが、誰もそのビジョンを知らない。それでいて勝手気ままにしていると思われるそれぞれの作業は結局一つの方向性を持っているのである。だから、彼らの様子を端から見ていると、将来どのような農村が出来上がるのか容易に想像できる。

 将来出来るであろう農村を想像していると、目の前にある現実の地方らしきものが雲下に見えてきた。私ははた!と気が付いた。彼らは霊界の農地を耕しているが、実は現世の景観を作っているのである。この世界で作っている農地は、実は現実世界の景観の雛形なのだ。つまり、数十年後か数百年後か分からないが、彼らの作った景観はいずれ現実の世界の景色となる。

 

 そう思うと、先ほどまでキャベツやニンジンを作っていたと思っていたものが、全く別なことをしていることに気付いた。どうやら大地を耕す=作物を作るという私の先入観でそのように見えていただけのようだった。恐らく、この世界そのものが先入観であってもそれを反映する世界なのだろうと漠然と感じた。

 実際、そこの住人たちの多くも何らかの作物を作っていると思っているようだった。彼らは天気も良いし今年はきっと豊作だろうというようなことを楽しそうに語り合っているのだから。

 しかし一部には自分たちが何をしているのか気付いている人たちもいた。彼らは新しい仕事が出来て、もうすぐ別な土地に移るのだと話していた。どこに行くのかは分からないがそれを楽しみにしているようだった。

 自分が何をしているのか理解しはじめた人たちと、そうではない人たちは心の波動が違ってくる。だから多分、同じ世界で一緒に作業続けることは出来ないのだろう。気が付かない人たちはとても善良な人たちだが、自分のために作業をしている。しかし、気付き始めた人たちは意識的に奉仕し始めている。

 霊界の町とか村というのは実は心の質に対応しているのだと思う。だから、彼らはその村を出て新しい土地で未来の人々のために『奉仕』を始めるのである。

 

 私も手伝いのつもりで鍬を入れて、しばらく作業をしていると足元の雑草に小さな人影が見えた。コロボックルだ。もっともこの世界は身体の大きさなど自由自在だから、何か勘違いした人の霊かと思ったが、人間の風体とは明らかに違う。奇妙に背広を着ているが耳がとんがっていて、言葉も人間のそれではない。

 あれっ!と思って周りを見渡すと、人々に混じって半透明の妖精たちがあちらこちらを飛び回っている。作業をしている人たちは気付いていないようだが、大勢の妖精たちが一緒に作業しているのだ。彼らは善良な人にしか近づかないと聞いたことがあるが、なるほどここで作業する人は根っからの善人でしかも明るい。作業しながらも笑いが絶えないから妖精にも好かれるのかもしれないと感じた。。。妖精の話は別の機会に。。。

続く・・・なが~い話でごめんなさい。

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2006/04/19 13:56|心象房:霊学TB:0CM:12
 

天国紀行No2 

 一生を省みる館。。。この館を経由せずに其々の世界に行く人も稀にいるが大概の人はここに行き着き、自分の一生を再体験して自分のしてきたことに気付く。相手になって最体験することで、生きていた時には分からなかった多くの事情にも気が付き理解する。稀に自分のしたことを頑なに認めない人もいるが、殆どの人は自ら気付く。

 そのことで、彼らは自分が行く世界を選択する。いわゆる天国を選択する人、地獄を選択する人、、、自分の気付きに従ってそれを決める。確かに自分で選択せずに決まってしまうように見える人もいる。しかし、そのような人でも自分がどこに行くのかは、心のどこかで気付いている。

 

 このイベントを終えると西方へと向かってゆく。ちょうど私が来た方向の反対側である。その場所は内省の館を囲んでいた山の内側にある。閑静な住宅街かちょっとにぎやかな農村地帯のような地域であるが、その人の性格や志向によって数多くの町があるようだ。

 ここにいる人たちは、既にイベントを終えて行き先は決まっているが、生前の想いによって少しの間留まることが出来る。

 例えば先立たれた旦那さんや奥さん、または子供たちと一緒に過ごしたいと願っていた人もいるだろう。そのような人のために既に霊界での生活を持っている人たちが来てくれて、ここで一緒の時間を過ごしてくれる。このようにして生前の想いを遂げて、心置きなく新しい生活に入れるように配慮されているのだ。

 配慮されているといっても、誰かがそのような取り決めをしたわけではないと思う。自然とそのような場所が出来上がったという感じだ。

 

 多くの人はここで生活する内に若返る。あの世は心の世界であるから、その人がもっとも活き活きとしていた頃の年齢へと若返る。殆どの人は二十歳前後の年齢に戻るようだ。特に女性はそうで男性は30代から40代という場合も多い。

 だから端から見ていると20代の女性と40代の男性というように親子に見える元夫婦も多い。

『真・善・美』という言葉があるが、女性は『美』を男性は『善』を象徴している。だから女性は最も『美』のあった年齢を選択するし、男性は最も『善』を理解した年齢を選択する傾向になるようだ。ちなみに『真』は神性のことである。

 

 ところで内省の館にはもう一つ大きなホールがある。一つの館は二つに分かれていて、前述したホールのちょうど裏側にもう一つ同じようなホールがある。だが、ここには子供しかいない。子供といっても水子の霊ではない。あの世からこの世に生まれ変わる人たちが準備をする場所なのである。

 新しく生まれる霊たちはそのホールで誕生に準備をする。そのホールの中央には水鏡があって、霊たちはここで自分の両親を見ることが出来る。霊たちは両親の元でする体験を決め、希望と不安の面持ちで見詰めている。彼らは縁と体験の目的で両親を選ぶが、時には引き寄せられるように両親が決まっている場合もある。

 いずれにしても、両親は彼らの道標となることに間違いはない。というのも、両親の性格は、その霊が学びたい、あるいは体験したい出来事と関係しているからだ。だから私たちは自分の両親をつぶさに観察することで、自分の生の目的を理解できるようになっている。

 出生の時期が近づくと、霊たちは徐々に子供になってついには赤子になる。赤子は真っ白な繭のようなものの中に入り誕生の時を待つ。その繭からは一本のコードが出ていて、それが母親につながっているようだ。

 

 この館の裏表では生と死が混在している。同じ建物に混在しているのはこちら側から見れば『死』でも、あちら側から見れば『生』というようにカードの裏表のようなものだからだろう。ただ死者は誕生のホールには全く気が付かないようだし、生まれる側は死者たちのホールに気が付いていないようだった。

 別な夢で誕生の夢を見たときにはこの館ではなく、霊界の其々の村にこのようなところがあったから、この館自体が多分に象徴的な存在であるような気はするが、私にはそのように見えた。

・・・続く

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2006/04/18 13:50|心象房:霊学TB:0CM:9
 

水に関した事故が多発しています 

 中国暦で新年となった2月立春から、まだ2ヵ月半だというのに水に関した事故が多発しています。本日の船舶事故もそうですが、先日の鯨と衝突した事故。九州で起こった列車事故も増水した水によって線路が曲がったのが原因とのことです。

 今年は三碧中宮年で一白水星が暗剣殺に当たっているためでしょうか。特に今日は三碧木星月の三碧木星日と、三碧木星が年月日と三盤で重なっていた日でした。このような重盤の日は特に作用が強くなりますので、今回の船舶事故に影響を与えたのかもしれません。

(三碧中宮の盤では災いを表す五黄は七赤金星の定位、兌宮に巡ります。七赤は凹の形状をしたものを表すのですが、ずばり鍋や船などが相当します。)

 年初からこれだけ水に関した事故が多発しますと、これから梅雨時期・台風などのシーズンに向けて老婆心が働きます。徐々に温かくなって海水浴シーズンなどが近づいてきた折には、皆様も充分注意された方が宜しいでしょう。

 水に関わるものには充分注意してください。心の片隅にでも置いていただいて、何かの折には安全第一に対処されますよう祈ります。

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2006/04/14 00:14|卜術房:気学TB:0CM:4
 

天国紀行No1 

 床に横になり眼を閉じると、酒を浴びるほど飲んだ時のように、いきなり天井が回りだした。何事だとびっくりして眼を開けるとなんとも無い。。。「ああそうか、始まったのだ」と覚悟を決めて再度目を閉じ、どんな感触なのかとつぶさに自分の体内を観察することにした。

 身体はなんとも無いが、手足の感覚が妙である。確かに両足はくっつき気味にそろえて寝ているし、両手は体にくっついているはずなのに、感覚はまるで大の字になって寝ているようだった。手足の感覚がずれているのである。どちらが本物かといえば、目の前が回るにつれてずれている感覚の方に実体感がある。

 更に回転が進むと、頭の中が暗くなってきて気を失うときの感覚に似ている。私は空手の組手をやったときに、グッドタイミングであごをけられ気を失ったことがある。手足の感覚の違和感はあったが、ちょうどその時のように意識がスーと引いていった。

 

 どの程度の時間が経過したか分からないが、気が付くと私は薄暗い半円形のドームの中にいた。それはすぐに自分の体内だと分かった。何故かというと、以前、体外離脱の瞑想をした時に、いつもそこが出発点になるようにイメージしていたからである。ただ、瞑想でそれをしようとしていた時はことごとく失敗している。それが、図らずもこのような形で実現しようとしていた。

 そうと分かれば、体脱の方法は分かっている。その半円形のドームの天辺にマンホール大の穴が開いている。そこから外に出ればよいだけだ。以前はマンホールに入って、どこまで行っても外には出られなかった。しかし、今回はうまく行くだろうと思った。唯一注意しなければならないのは恐怖心だが、今、何が起ころうとしているのか予測が付いていた私にはそれも無い。

 飛び上がるように頭上のマンホールを目指すと、スッーと吸い込まれるように入り込むことが出来た。ガスがかかったような巨大なホース(トンネル)の中を飛んでゆくと、はるかな前方に光が見えてきた。気を緩めずその光に集中すると、そのホースから飛び出る一瞬、まぶしい光に包まれて意識がなくなった。

 

 一瞬の間をおいて意識が戻ったとき、私は地獄へ行った時に一度来た場所へ立っていた。石の荒野である。相変わらず薄暗い曇天のどんよりとしたところであったが、はるか下層の世界に比べれば、ここも天国のようなものである。しばらくの間、思い返すようにその世界を確認した後、夢遊病者のように進む例の行列の方へと向かった。

 その行列に加われば今回の目的地に到達することが出来る。そう思った時、私の体が何かの力に引っ張られた。気が付くと私は草原の真っ只中にいた。「言の刃」の森のような草原ではない。果ても見えないほどの広大な草原である。夜明けのようにやや薄暗いが、その草原のはるか先は晴天のように明るかった。中でもとりわけ明るそうなところがあって、そこが今回の目的地なのだろうと思い歩を進めることにした。

 途中、何箇所も落とし穴のような直径2メートルほどのホールがある。真っ暗なので下に何があるのかは分からないが、おそらく夢遊病者のように行列をなしている世界へつながっているのだろうと浮かんできた。しかし、その穴の中には少ないがもっと深いところへと通じているものもあるようだった。

 いつの間にか、一段上の世界へ来ているようだ。おそらく引っ張られた時に来たのだろうが、もしかしたら明確な区別が無いのかもしれない。

 

 とにかく、せっかくここに来たのだから、その手の穴から下に落ちたのではたまらないと警戒しつつ、明るいところを目指して進んだ。目的地に近づくにつれて、その落とし穴も無くなり、あたりは初夏を思わせる草原へと変わっていった。所々に美しい花も咲いている。私は花には詳しくないので名前は分からないが、地上で見かける花とよく似ている。

 ここまで来ると、先ほどの暗がりは無くなり、美しい世界が広がっていた。中央に近づくにつれて花の数も増え様々な種類が咲き乱れている。中央部分に来ると草原の全景が見えてきたので辺りを見回すと、周囲は山々に囲まれているが、どれも緑に包まれた山々でそれほど高くは無いように見えた。

 前方に壮麗な建物が見えてきたので私は心もち歩を早めた。更に花々が密集してきて、花と緑のコントラストが美しい。その草原(花畑?)を縦横に道が通っており、その中央に例の建物があった。間近で見ると、そびえているという表現がマッチするその建物は、ギリシャの神殿のようであるがどこか日本的な神社仏閣の雰囲気を持っている。

 後になって思ったことだが、建物の形は恐らく見る人によって大分形が変わるのではないかと思う。多分、見る人の信条であるとか、経験であるとかがこの建物の形に影響しているのではないかと思う。

 

  正面に立つとギリシャ風の真っ白な柱が中央の巨大な扉を挟んで両側に三本づつ立っている。三段の大理石の段を上り扉を開けようとすると、開ける必要も無くスッと中に入った。その建物の中は全く何も無い。体育館のようにただ広く柱に囲まれているだけであるが、どこか調和が取れていて美しい。

 その一本一本の柱のところに幾人かが集まって、何か笑ったり、泣いたりしているが談笑している様子ではない。よく見ると、中にはうつろな眼で空中を見つめている人やガクリと片を落としている人、とても楽しそうに見守られている人など様々である。あるグループのところではTVのようなものが現れたり消えたりしており、また、あるグループでは空中に何かの映像が浮かび上がっている。

 どうやら彼らはここで生前の様子を思い出しているようである。その様子が空間に映し出され、集まってきた数人の人がそれを見ているらしかった。しかし、少しばかり、それとも様子が違うということに気付き伺っていると、薄いローブのようなものを纏った人がいつの間にか隣に来ていた。

 

 かすかに微笑んだ顔つきと、物腰の穏やかそうな雰囲気を漂わせているが、深い慈しみと自信がみなぎったような眼をしている。もちろん直接会話をしたわけではないが、彼の雰囲気はこう私に告げていた。

 彼らの一生の思い出は走馬灯のように空間のスクリーンに映し出される。人によっては生活環境の癖でTVや映画のスクリーンのようなものが現れる場合もあるようだ。そのスクリーンには人生上のあらゆる情景が映し出されることになるばかりか、その人の心の中の呟きまでもが映し出されるらしい。

 つまり観客はその人の現実の出来事と、その時々の内面を同時に見ることが出来る。もし、観客がその映像のどこかに注意を引かれると、そこだけをクローズアップで見ることも可能らしい。

 

 自分の一生涯と心の内を映像として第三者の立場から見、また周囲の人にも見られてしまう。それゆえの悲喜こもごもの叫び声が建物の中で反響していた。恥ずかしさのあまりうずくまる者、開き直る者、言い訳する者、、、様々であるが、そのようにして彼らは生前の自分の生き様を客観的に見せられ、自分がどのような人間であったかを自ら気付くことになる。

 しかし、そればかりではなかった。確かに彼らと、その周囲の人たちは一生を省みるが、中には自分の行いを省みて涙しているものもいる。第三者に見られている恥ずかしさからだけではなく、れっきとした理由があった。

 

 自分の一生を省みるのだが、このイベントの最も大きな特徴は、相手そのものになってこのシーンを見なければならないということである。

 つまり、あなたがひどい言葉で相手を傷つけたシーンがあるとしよう。そのシーンの中であなたはまず自分の言葉と心の内の言葉を再現し、客観的に見ることになる。そして次の瞬間には、あなたは傷つけた人そのものになって相手が抱いた思いと考えを相手の立場で直接体験することになる。

 もちろん、あなたの思いやりの一言が、相手をどんなに勇気付けたかなども、あなたは相手そのものになって体験することになるだろう。

 

 相手の気持ちになって考えなさい。と私たちは教えられて育った。しかし、ここでは相手の気持ちになってどころか相手そのものになるのだから、否応無く自分の行動、言葉、表情の一つ一つが、どれ程相手を傷つけ、または勇気付けたかをその痛みと共に正確に理解することになる。

 自分の思いと相手の思いを同時に体験して死者は自ずと自分のしたことを悟る。誰に裁かれるのではなく、自ら悟り、自ら裁くのである。だから、誰でも、間違いなく相手の立場に立つ時が来る。

 

 この見聞は霊界紀行の夢の中で最も衝撃的なことであった。それ以降、私は人を裁くこと、つまり、あいつはとんでもない奴だとか、おろかな奴だとか決め付けることがずっと少なくなった。いずれ罪は自分で裁く日が来るのだから、それはその人自身に任せるのが良いと思うようになったからだ。

 人は誰かに裁かれると、必ず言い訳し反発するだろう。そこには悔恨の情が生まれる余地はない。自ら気付いたときのみ、人は自分の過ちを認めるのだと理解したからだ。

 

 だが、このことはもう一つ大切なことを私に教えてくれた。

 何故、相手の立場に入れ替わることが出来るのか?

 もし、私たち一人ひとりが完全に独立した存在なら、相手そのものになることは不可能であるはずだ。彼らは気が付いていないようだが、一生を空間のスクリーンに映し出されるより、ずっと不可思議な現象ではないだろうか。

 この疑問に与えられる回答は一つしかない。つまり『私たちは一つである』ということ以外に考えられない。この現象をつぶさに観察することが出来、ワンネスという考えは更に確信を帯びたものになった。私たちは元々、たった一つの存在なのだ。

。。。続く

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2006/04/13 15:12|心象房:霊学TB:0CM:8
 

呼吸法と注意点 

 私たちが無意識のうちに行っている呼吸だが瞑想には欠かせない要素の一つとなっている。瞑想や仙道で用いるのは腹式呼吸であるが、その腹式呼吸にも幾つかの種類がある。仙道ではこれを『調息・武息・胎息』と大きく三つに分けている。

 呼吸のリズムは『吐く・止める・吸う』のサイクルで行われるが、単純に言って吐息を吸気よりも長く取れば『調息』、吐息よりも吸気を長く取れば『武息』となる。では胎息はといえば、調息を鍛錬してゆくと呼吸そのもののリズムが長くなり、ついには無呼吸となると伝えられる。つまり胎児の呼吸と同じようになり、肺呼吸ではなく皮膚呼吸になるというのである。

 思うに、瞑想とは肉体的な活動を極限まで下げて、精神のみが活動をしているようなものだから、理想から言えば肉体は仮死状態になっていたほうが都合が良い。もっとも意図的にこのような状態になれるはずはないだろうから、あくまでも理想としてである。胎息とはまさにこのような状態ということが出来るだろう。

 

 呼吸と瞑想の関係でよく取りざたされるのは、呼吸が随意筋と不随意筋にまたがって動いているということである。随意筋は意識で動かすことが出来る筋肉であるが、不随意筋は意識の力では動かせない例えば心臓などの筋肉のことを言う。

 乱暴な言い方をすれば、随意筋は表面意識と深いつながりがあり、不随意筋は潜在意識と深い関係にあるといえる。呼吸で使われる筋肉はこの両方のちょうど中間にまたがっている。だから、意識的に呼吸をすることも出来るし、全く意識しなくても呼吸が止まることはないというわけである。

 瞑想などで呼吸が重視されるのは、意識的に呼吸をすることで不随意筋(自律神経系・潜在意識)を刺激しようという目的があるからだ。裏を返せば瞑想が潜在意識の活用に関係しているからと言うことも出来よう。

 

 一般に調息は気を静めるときに用いられ、武息は練功など気を練り高めるときに用いられる。現代人は気が頭に上っていること(上気)が多いので、瞑想といえば調息に比重を置いた方がよいということになるだろう。

 ただ調息の弊害もある。私は現在、血圧が95前後しかない。少し気持ちを落ち着けると80まですぐに下降する。生来の低血圧というわけではなく、二十歳ぐらいまでは普通の血圧(120前後)であったのだ。それが調息主体の呼吸法を続けた結果(一日中意識的にその呼吸法を続けていた)そのようなことになってしまったのだ。

 もっとも、今ではそれで困ることは無い。心臓を患う前までは貧血ということも無く、朝が苦手ということも無い(もっとも、万年寝不足の状態が続いているので眠いのは確かだが)。とは言っても、おそらく20歳から25歳にかけて血圧が急速に低下した頃は、かなりの低血圧症状に悩まされた。特に鬱気味の症状は辛かった。だから、調息に偏りすぎるのは注意してもらいたいと警告しておきたい。要はバランスの問題なので肉体や精神の状態と相談しながらチャレンジしてもらいたいと思う。

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2006/04/12 23:52|山術房:瞑想TB:0CM:8
 

民主党新代表小沢一郎氏 

 遅くなったが民主党の新代表となった小沢一郎氏を占じてみた。

                       社会格:21

 ┌― 小3○ ┐     ┐
4|      |天格:20 |
 |┌ 沢17○ ┤     |
 ||     |人格:18 |外格:17
 └┼ 一1○ ┤     |
31 |     |地格:15 |
  └ 郎14● ┘     ┘

家庭格:32
――――――――――――――――――――
               総格:35

 小沢氏の姓名を見ると姓名の構成は上から『陽・陽・陽・陰』となっている。易象的に言えば下から影が忍び寄ってくる象である。総画の35画は保守的な数で自民党にいたときはとても相性が良かった。しかし自民党を和って出て野党となってからは今回で三度目の党首。その陰影がここに現れている。

 音霊は「い」で土気、名第一字は1画の木気なので木剋土である。自立心(木)が強く、周囲(土)を抑え栄養分として吸収しながら成長する象である。

 人格の18画、地格の15画ともに非常に温和な数であり人望を集める吉数だ。ところが外格の17画は頑固一徹な数で、外格は第一印象や他人からどう見られるかを表しているから、豪腕小沢の印象がここから出ていると見て取れる。

 それでは小沢氏の今年の運気はどうだったのだろうか?

 総格の35画は単数8で外格も同じく8になる。今年、八白は坎宮に回座しており気学で見ると困難宮に位置しているので決して良いとは言えない。むしろ暗剣殺や歳破に次いで悪い時期である。しかし、遁甲盤で八白は今年最も強い運気を持っている。

 総格と、仕事運を表す外格がともに最強の運勢であり、対社会性を表す社会運は21画で単数3。三碧は今年の中宮星であるから、何かと中心に立たされる運である。しかし、中宮に回座しているとき運気は後半から乱れやすい。奇しくも民主党では9月に代表選とだぶるから、その時期あたりからは運気的にきつくなりそうだ。

 

 以上のように小沢氏が民主党の代表となったのも納得できる。しかし、新字体で見てみると。。。

                       社会格:4 定位対冲

 ┌― 小3○ ┐     ┐
4|      |天格:10 |
 |┌ 沢7○ ┤     |
 ||     |人格:8 |外格:12 中宮
 └┼ 一1○ ┤     |
16 |     |地格:10 |
  └ 郎9○ ┘  暗剣殺┘

家庭格:17
――――――――――――――――――――
               総格:20 歳破

 となる。地格は単数1で暗剣殺、これは天格−地格の同格で非常に短気で気分にムラが多いことを示している。その地格は10画で単数1の暗剣殺である。これがとても気に掛かる。単数1に悪気がかかるのが7月9月であるから、どうもそのあたりに運気が乱れる気がしてならない。

 また、今年民主党は歳破で非常に危ういと以前書いたが、その星と同じ単数2が氏の総格に来ている。こちらは8月、11月に注意を要する。

 

 さて、こうしてみると、新字体で判じた方も、そう外れてはいないという印象を持つ。本字式と新字式とでは表している部分が異なるだけで、どちらも使い分けが可能だということなのだろうか?

 姓名判断的にも貴重な例として今後を見守りたい。

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2006/04/11 13:23|相術房:姓名判断TB:1CM:1
 

ユダは裏切り者ではなかった 

 4月6日のニュースで1700年前のパピルスが解読されたと流れていた。このパピルスは1970年代にエジプトから見つかったもので『ユダの福音書』の写しなのだという。

 ユダといえばイエスを僅かなお金でローマに売り渡し、ゴルゴタで磔刑に処した張本人とされていた。だからユダといえば裏切り者と同義語になっているほどだ。とこ