床に横になり眼を閉じると、酒を浴びるほど飲んだ時のように、いきなり天井が回りだした。何事だとびっくりして眼を開けるとなんとも無い。。。「ああそうか、始まったのだ」と覚悟を決めて再度目を閉じ、どんな感触なのかとつぶさに自分の体内を観察することにした。
身体はなんとも無いが、手足の感覚が妙である。確かに両足はくっつき気味にそろえて寝ているし、両手は体にくっついているはずなのに、感覚はまるで大の字になって寝ているようだった。手足の感覚がずれているのである。どちらが本物かといえば、目の前が回るにつれてずれている感覚の方に実体感がある。
更に回転が進むと、頭の中が暗くなってきて気を失うときの感覚に似ている。私は空手の組手をやったときに、グッドタイミングであごをけられ気を失ったことがある。手足の感覚の違和感はあったが、ちょうどその時のように意識がスーと引いていった。
どの程度の時間が経過したか分からないが、気が付くと私は薄暗い半円形のドームの中にいた。それはすぐに自分の体内だと分かった。何故かというと、以前、体外離脱の瞑想をした時に、いつもそこが出発点になるようにイメージしていたからである。ただ、瞑想でそれをしようとしていた時はことごとく失敗している。それが、図らずもこのような形で実現しようとしていた。
そうと分かれば、体脱の方法は分かっている。その半円形のドームの天辺にマンホール大の穴が開いている。そこから外に出ればよいだけだ。以前はマンホールに入って、どこまで行っても外には出られなかった。しかし、今回はうまく行くだろうと思った。唯一注意しなければならないのは恐怖心だが、今、何が起ころうとしているのか予測が付いていた私にはそれも無い。
飛び上がるように頭上のマンホールを目指すと、スッーと吸い込まれるように入り込むことが出来た。ガスがかかったような巨大なホース(トンネル)の中を飛んでゆくと、はるかな前方に光が見えてきた。気を緩めずその光に集中すると、そのホースから飛び出る一瞬、まぶしい光に包まれて意識がなくなった。
一瞬の間をおいて意識が戻ったとき、私は地獄へ行った時に一度来た場所へ立っていた。石の荒野である。相変わらず薄暗い曇天のどんよりとしたところであったが、はるか下層の世界に比べれば、ここも天国のようなものである。しばらくの間、思い返すようにその世界を確認した後、夢遊病者のように進む例の行列の方へと向かった。
その行列に加われば今回の目的地に到達することが出来る。そう思った時、私の体が何かの力に引っ張られた。気が付くと私は草原の真っ只中にいた。「言の刃」の森のような草原ではない。果ても見えないほどの広大な草原である。夜明けのようにやや薄暗いが、その草原のはるか先は晴天のように明るかった。中でもとりわけ明るそうなところがあって、そこが今回の目的地なのだろうと思い歩を進めることにした。
途中、何箇所も落とし穴のような直径2メートルほどのホールがある。真っ暗なので下に何があるのかは分からないが、おそらく夢遊病者のように行列をなしている世界へつながっているのだろうと浮かんできた。しかし、その穴の中には少ないがもっと深いところへと通じているものもあるようだった。
いつの間にか、一段上の世界へ来ているようだ。おそらく引っ張られた時に来たのだろうが、もしかしたら明確な区別が無いのかもしれない。
とにかく、せっかくここに来たのだから、その手の穴から下に落ちたのではたまらないと警戒しつつ、明るいところを目指して進んだ。目的地に近づくにつれて、その落とし穴も無くなり、あたりは初夏を思わせる草原へと変わっていった。所々に美しい花も咲いている。私は花には詳しくないので名前は分からないが、地上で見かける花とよく似ている。
ここまで来ると、先ほどの暗がりは無くなり、美しい世界が広がっていた。中央に近づくにつれて花の数も増え様々な種類が咲き乱れている。中央部分に来ると草原の全景が見えてきたので辺りを見回すと、周囲は山々に囲まれているが、どれも緑に包まれた山々でそれほど高くは無いように見えた。
前方に壮麗な建物が見えてきたので私は心もち歩を早めた。更に花々が密集してきて、花と緑のコントラストが美しい。その草原(花畑?)を縦横に道が通っており、その中央に例の建物があった。間近で見ると、そびえているという表現がマッチするその建物は、ギリシャの神殿のようであるがどこか日本的な神社仏閣の雰囲気を持っている。
後になって思ったことだが、建物の形は恐らく見る人によって大分形が変わるのではないかと思う。多分、見る人の信条であるとか、経験であるとかがこの建物の形に影響しているのではないかと思う。
正面に立つとギリシャ風の真っ白な柱が中央の巨大な扉を挟んで両側に三本づつ立っている。三段の大理石の段を上り扉を開けようとすると、開ける必要も無くスッと中に入った。その建物の中は全く何も無い。体育館のようにただ広く柱に囲まれているだけであるが、どこか調和が取れていて美しい。
その一本一本の柱のところに幾人かが集まって、何か笑ったり、泣いたりしているが談笑している様子ではない。よく見ると、中にはうつろな眼で空中を見つめている人やガクリと片を落としている人、とても楽しそうに見守られている人など様々である。あるグループのところではTVのようなものが現れたり消えたりしており、また、あるグループでは空中に何かの映像が浮かび上がっている。
どうやら彼らはここで生前の様子を思い出しているようである。その様子が空間に映し出され、集まってきた数人の人がそれを見ているらしかった。しかし、少しばかり、それとも様子が違うということに気付き伺っていると、薄いローブのようなものを纏った人がいつの間にか隣に来ていた。
かすかに微笑んだ顔つきと、物腰の穏やかそうな雰囲気を漂わせているが、深い慈しみと自信がみなぎったような眼をしている。もちろん直接会話をしたわけではないが、彼の雰囲気はこう私に告げていた。
彼らの一生の思い出は走馬灯のように空間のスクリーンに映し出される。人によっては生活環境の癖でTVや映画のスクリーンのようなものが現れる場合もあるようだ。そのスクリーンには人生上のあらゆる情景が映し出されることになるばかりか、その人の心の中の呟きまでもが映し出されるらしい。
つまり観客はその人の現実の出来事と、その時々の内面を同時に見ることが出来る。もし、観客がその映像のどこかに注意を引かれると、そこだけをクローズアップで見ることも可能らしい。
自分の一生涯と心の内を映像として第三者の立場から見、また周囲の人にも見られてしまう。それゆえの悲喜こもごもの叫び声が建物の中で反響していた。恥ずかしさのあまりうずくまる者、開き直る者、言い訳する者、、、様々であるが、そのようにして彼らは生前の自分の生き様を客観的に見せられ、自分がどのような人間であったかを自ら気付くことになる。
しかし、そればかりではなかった。確かに彼らと、その周囲の人たちは一生を省みるが、中には自分の行いを省みて涙しているものもいる。第三者に見られている恥ずかしさからだけではなく、れっきとした理由があった。
自分の一生を省みるのだが、このイベントの最も大きな特徴は、相手そのものになってこのシーンを見なければならないということである。
つまり、あなたがひどい言葉で相手を傷つけたシーンがあるとしよう。そのシーンの中であなたはまず自分の言葉と心の内の言葉を再現し、客観的に見ることになる。そして次の瞬間には、あなたは傷つけた人そのものになって相手が抱いた思いと考えを相手の立場で直接体験することになる。
もちろん、あなたの思いやりの一言が、相手をどんなに勇気付けたかなども、あなたは相手そのものになって体験することになるだろう。
相手の気持ちになって考えなさい。と私たちは教えられて育った。しかし、ここでは相手の気持ちになってどころか相手そのものになるのだから、否応無く自分の行動、言葉、表情の一つ一つが、どれ程相手を傷つけ、または勇気付けたかをその痛みと共に正確に理解することになる。
自分の思いと相手の思いを同時に体験して死者は自ずと自分のしたことを悟る。誰に裁かれるのではなく、自ら悟り、自ら裁くのである。だから、誰でも、間違いなく相手の立場に立つ時が来る。
この見聞は霊界紀行の夢の中で最も衝撃的なことであった。それ以降、私は人を裁くこと、つまり、あいつはとんでもない奴だとか、おろかな奴だとか決め付けることがずっと少なくなった。いずれ罪は自分で裁く日が来るのだから、それはその人自身に任せるのが良いと思うようになったからだ。
人は誰かに裁かれると、必ず言い訳し反発するだろう。そこには悔恨の情が生まれる余地はない。自ら気付いたときのみ、人は自分の過ちを認めるのだと理解したからだ。
だが、このことはもう一つ大切なことを私に教えてくれた。
何故、相手の立場に入れ替わることが出来るのか?
もし、私たち一人ひとりが完全に独立した存在なら、相手そのものになることは不可能であるはずだ。彼らは気が付いていないようだが、一生を空間のスクリーンに映し出されるより、ずっと不可思議な現象ではないだろうか。
この疑問に与えられる回答は一つしかない。つまり『私たちは一つである』ということ以外に考えられない。この現象をつぶさに観察することが出来、ワンネスという考えは更に確信を帯びたものになった。私たちは元々、たった一つの存在なのだ。
。。。続く
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