私たちの意識は表面意識、前意識、潜在意識、共通の無意識に分かれるとされている。このうち前意識とは思い出そうとすると何とか思い出せる記憶のある領域のことを言う。表面意識と潜在意識の中間にある意識ということになるが、このことは潜在意識が思い出せない記憶の領域だと言うことを認識させてくれる。
表面に上ってこない記憶。これが潜在意識だから、この意識にメスを入れるのはなかなか骨の折れる作業と言うことになる。
お釈迦様は瞑想を通して一生どころか過去世の出来事までも思い出たとされるが、全て思い出すことが出来れば、もはや潜在意識は無くなってしまう。
しかし、本来潜在意識は思い出せない記憶だから、これを独力で何とかしようというのは論理的には無理な話だ。そこで、軽い暗示誘導によって核になる出来事を思い出させてもらおうと言うのがダイアネティックスであった。
この誘導者は被術者がどのような核を持っているのかはわからないので、何かを思い出すようにと暗示を掛ける。すると不思議なことに潜在意識は被術者自身の問題となっている出来事を意識に上らせて来る。もちろん最初から根本的な核を出してくることはなく、その核に付着している後続的な出来事を出してくるのであるが、それでも十分な手がかりを得ることになる。後はそれを手がかりに更に探ってゆく事になる。
潜在意識の特異な性質は私たちには一つの光明だと言えるのではないだろうか。つまり、潜在意識は私たちの問題を認識しており、更にそれを表層意識に上らせたがっていると考えることが出来るからだ。
話はずれるが、潜在意識のこの機能が実は私たちの様々な問題を生んでもいるのではないかと私は思う。というのも、もし潜在意識が現実を作り出す能力が本当にあるとしたら、内在する問題を修正させるために現実化して私たちに突きつけていると考えることも可能だからだ。
もし、そうだとしたら、逆にこの機能は光明となる。つまり、潜在意識が修正させたがっている問題に気付いてあげること。ただそれだけで私たちの現実は変わる可能性があるからだ。
実際、私はこの現象を何度も体験している。自分の周囲で起こっている出来事、又は、自分が置かれている状況の中で、不本意な出来事に注目する。そして、
「もし、それがメッセージだとしたら、それは何を伝えたがっているだろうか?」
と考えてみるのである。そこから導かれた答えが的を射るものならば、その途端に状況は変わり始めるのである。
潜在意識は非物質的な世界で活動している。だから答えも純粋に精神的なもの以外にはない。しかし、そのことに気付くことで、物質世界の状況はみるみるうちに変化し、正常な状態へと変わってゆく。
この「気づき」は精神世界では良く言及されることであるが、多くの人が想像している以上の効果があると指摘しておきたい。
潜在意識からのメッセージは、その人個人によって大きな幅があるだろう。それでも、メッセージに共通の概念を抽出することは出来る。それは、
ここで何度も繰り返してきたように「全ては一つである」こと、「全ては完全である」こと、「誰でも全く自由である」ことなどをあげることが出来るだろう。
「全ては一つである」とは、
潜在意識の最も深い部分では、共通の無意識と呼ばれるものがあるといわれる。これは、潜在意識の深い部分では自他の区別がないことを示している。だから、あなたが誰かに対して抱く考え、思いは、自分自身に対して抱く考えに等しい。
もし、あなたが心から誰かを思いやるなら、それは自分を愛することに等しい。また、誰かを助けようとするなら、自分をも救済するだろう。
私たちは誰かを否定することで自分を否定し、あいつは○○な奴だとレッテルを貼ることで、自分をも規定している。このレッテルは相手を裁く行為に等しい。誰かを裁くことで自分をも裁くのである。
全てが一つであるとは、何も人との関係ばかりとは限らない。「あなたは全てである」なら、あなたは全てを持っている。あなたが必要とするものは全てあなたの中にあるのだから、何も求める必要がないとわかる。私たちは求めることによって、それを持っていないと表明しているのだ。
だから、自分自身がどこまで全一であると思えるかによって、あなたが持てるものも変わってくる。また、全一であるということは、赤の他人も実は自分自身なのだから、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」といったイエスの言葉は潜在意識的にも真実なのだ。
もし、あなたがこの様な考え方から程遠いところにいるなら、それらは困った事象をあなたの周りに起こし、それを修正してくれと、あなたに訴えかけてくることだろう。
「全ては完全である」とは
全てが完全なら必要なときに必要なことが起こるだろう。私たちは自分の周りに不本意なことが起こっていると、とても完全なことが起こっているとは思えない。しかし、それがメッセージなら、それによって気付くことで完全な輪が出来上がる。
欠けているのは、私たちの「気付き」だけなのだ。それが、完全な輪を断ち切っていると考えることは出来ないだろうか?
私たちは完全とか完璧とか、絶対、無限などといった言葉は知っているが、その概念には精通していない。つまり、「完全」を知らないのであるが、「完全」の欠如、つまり「不完全」な状態に捕らわれて抜け出せないでいると思うことが良くある。
完全は必ず喜びを生み出す。もし、あなたに許し難い誰かがいたとして、互いに理解し合い、許し合ったとき、喜びが生れないだろうか?
許し難いと思っているとき輪は完結していない。しかし、許すことで輪は完結し喜びが生れる。
だから、全てが完全であるとは、一連の輪が完結することなのだと思う。完結していない時点では、それは不完全にしか見えないし、まして、完結させなければいつまでも不完全さしか見えない。
だが、不完全さしか見えないということは、完全ではないということとは全く違う。私たちは誰でも、完全な輪の中にいる。だが、その輪をつなぐのはその人自身に任されているのだと思う。
だからもし、輪が完結しない状況の中にいるなら、輪を完結してくれと潜在意識は困った事象を起こす。
「完全に自由である」ということ
全ては一つで、あなたが本当は全てを持っており、完璧な輪の中にいるとしたら、そこに不自由な何かはあるだろうか?
あなたは何でも出来、いつでも輪を完結することが出来る。ここではもはや問題や困難は喜びへ至る糧に過ぎない。
唯一あなたが自由であると認めない時を除いては。
元々潜在意識は非物質的な働きである。そこにはどのような環境的な制限も、制約もない。私たちは環境的な制約で自分が縛られていると思いこんでいるが、もし、あなたが、完全な精神であったとしたら、何が制限や制約を加えるだろう。
外的な条件を気に掛けることによって、あなたが不自由になる以外、何も制約はないはずである。潜在意識の視点はまさにここにある。
だから、自分は不自由であると考えていることに気付くなら、何によって不自由であると考えているかに気付くなら、潜在意識は自由な状態に置かれ満足するだろう。
さて、私たちは相手を自由にすることをとても恐れる。相手に自由を許せば何をしでかすかわからないし、自由イコール堕落、怠惰だと信じ込んでいる。
だから常に相手に要求を突きつけ、それが叶わなければ、要求を受け入れてもらえないと、憤慨し自分を縛り付ける。だから自由の根本には信じることがあるかも知れない。あなたがどこかで相手を縛ろうとしない限り、あなたはいつでも自由でいられるはずである。
この作業を連綿と続けて行けば、逐次状況は好転するだろう。それでも、本質的な核に至るには相当の時間を労力を要することになる。一気にその「核」に至ることが出来れば話は早いのであるが、こればかりはどのような手法を用いてもタマネギを一枚一枚はがしてゆくしかないようだ。
次回は瞑想によって核に迫る方法を考察してみたい。
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