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趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

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Author:やわたうま
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観天望気 

 観天望気というと天気予報のことだと認識されている方が多いだろう。確かにそのような意味で発展してきたものだろうと思うが、観天望気にはもう一つの意味がある。

 文字通り解釈すれば「天を観察し気を望む」ということになり、引いて考えると天体の動きなどから気の流れを読み取るということになる。この世の全ての事象は現実に起こる前に、まず気の世界で動きが起こる。だから、気の流れを読み取ることが出来れば、その後に続く出来事もわかるというわけだ。

 その気の動きを星の観察から予測しようというのが観天望気であり、単なる天気予報の範疇を超えて社会の事象も推測するテクニックだったわけである。

 

 占星術がアストロロジーと呼ばれるのも実は同じ概念からだ。アストロロジーはアストラルという言葉から来ているが、これは肉体を包む霊的な身体や、その身体が属する世界のことを言う。一般には私たちの「感情・情緒・直感」と密接な関係があるとされる。

 この世界がいわゆる「気界」なので、観天望気とはアストラル界で起こっていることを読み解く技術だということが出来る。つまり、観天望気と占星術は同じ概念の上に成立しているのだとわかる。

 

 気功などが一時ブームになり、私たち日本でも随分と浸透した。しかし気を見るためには特別な訓練をつまなければならないと多くの人が思っているだろうが、日常の生活のなかで以外と私たちは様々な気を見ている。その一つが前述の「天気」で、天気は雨が降った、晴れたという以外に実に多くのことを物語っているのである。

 また「機先を制する」といわれるが、この「機先」の「機」を「気」と言い換えても良いだろう。つまり「気先を制する」である。「気」は物事の動き(機)に先んじて発生するので、動きのある前に制する(動く)ことが可能になる。

 この気そのものは確かに気功などに長じた人でなければ見ることは出来ないだろうが、気の動きには必ず象が伴うので、それを読めば近い未来に何が起こるかわかる。この象とは占術で用いられる象意のことで、これを記憶しているだけでも結構な役に立つ。

 

 以下は今週、私に実際に起こった出来事であるが例題に代えて掲載してみたい。

 

 今週の月曜日、私は4t車に乗っていた。朝から何とも嫌な予感がしていたのであるが、その予感だけでは何が起こるか解らない。すると荷物を運搬し始めてまもなくタイヤがパンクした。積載状態でのパンクで、なんとスペアもジャッキも付いていなかったので、仲間に道具を持ってきてもらい2時間ほどもかかってようやくタイヤを交換した。

 普通なら、ここで終わりだと思うが、それでも嫌な予感が消えなかった私は、タイヤのパンクが「気先」だと考えた。そうすると、これは何を意味しているだろう?

 まず「タイヤ」は丸く、動くものなので六白金星の象意だ。材質で言うとゴムで、ゴムは伸縮するので四禄木星の象意となる。パンクは右前輪だったので二黒の象意、辰巳の刻で四禄の象意を強めている。

 パンクは結構急な坂道の登坂中に起こり、場所は山間なので八白の象意だ。

 

 この出来事から以上のことが読み取れたので、九星術を使ってアナグラムを試みた。六白(車)、四禄(道路)の象が強いことから交通事故が起こりやすいのは、まず間違いないだろう。パンクは八白象意の場所で起こったので、カーブか十字路などで起こりやすい。

 相手はタイヤが傷ついたと考えると六白なので、お爺さんか、壮年の男性、もしくは小さな子供にまず注意が必要だ。さらに二黒の象意を読めば老婆、主婦なども一応注意しておいたほうが良いだろう。。。と予測した。

 

 このことから、道路の連結部分では十分注意し、また、おじいさんやお婆さんが視界に入ったときも注意して運転した。。。ところが、やってしまった^^;

 といっても、バックミラーを破損しただけで済んだのだが、そのときの状況は。。。

 部分的に狭くなっている道路(八白もしくは四禄)で、対向車の大型ダンプ(六白、作業車と考えれば二黒)が強引に入ってきたので、避け様として道脇のカーブミラーにぶつかったのである。

 カーブミラー(六白、もしくは九紫)は、民家の門(八白)についていた個人のもので、すぐにその家の農家(二黒)の御主人(六白)が駆けつけてきた^^;

 時刻は14:00頃だから、ちょうど二黒象意の時間帯である。二黒中宮では八白は暗剣殺となる。

 

 以上が私流ながら観天望気の卑近な使用法だ。この事故が起こって瞬時に私はこう思った「よかった〜」と。

 というのも、もし何も気にせずに注意を向けていなければ、予想通りの人身事故になっていたか、大型ダンプと出会いがしらの正面衝突なんて可能性が高かったと思うからだ。

 事前に細心の注意をする状況を作ったことで、大難が中難に、中難は小難に、小難は無難になると、今までの経験から知っているからである。

 無難ともなってしまえば、何も起きないのだから「結局何もなかったじゃないか!占いは当たらない!」となってしまいがちだが、この手の予測法がかなりの確率で起こることを知っている私にとっては、本当に「よかった〜」なのである。

 何も知らずに事件が起これば、きっと気分も随分とへこむ事になるだろうが、そういう面では精神衛生上もかなり宜しかろうと思う^^;

 

 この手の占法を使う場合、最も重要なのは「占機」を捉えることだ。これが以外と難しい。というのも占機を捉えるためには、いつも意識的でいることが大切で、これが難しいのである。

 上の例だと占機はタイヤのパンクにありそうだが実際には私の嫌な予感にある。何か憤慨するような出来事があったわけでもなく、気分を害する出来事があったわけでもないのに、嫌な予感がずっと続いていた。これがまず第一の予兆だが、この段階ではあくまでも気分的なことで事象は具体的になっていない。

 だから、推測や占断の仕様もないが、次の第二の予兆のパンクでより明確になった。もし、朝からの嫌な予感がなければ、タイヤのパンクだけで済んだだろう。

 

 このように重要な出来事には必ず予兆(動き)がある。それを見逃さないためには、常に意識的でいること、、、これが至極重要なのである。

 この方法さえ知っていれば、暦の読み方も必要がないし、その日の干支を忘れていても全く問題ないので、象意を暗記してさえいれば、いつでも、何処でも使えるというとても便利な方法である。ちょっとしたコツに慣れる必要はあるかもしれないが、お勧めしたい占法の一つである。

 

2006/08/31 10:37|卜術房:気学TB:0CM:5
 

冥王星の不思議 

 さて、もう既に大きく報道されているので、今更という記事になってしまったが、今回の冥王星の陥落について、私の思うことを書いておきたいと思う。話はあちこちに飛ぶと思うが御容赦願いたい。

 

 さて今回、冥王星が惑星から陥落したことは、科学的に考えると至極正当なことであると思う。しかし既に冥王星を惑星という扱いで体系化が進んできた西洋占星術では大打撃になりかねない。占術を象徴学と割り切ってしまえば、冥王星をその体系から除外する理由もないのだが、私には少しばかりの疑問がある。

 もともと、占星術は約5000年ほど前にシュメールで生まれた。それがバビロニアに渡り占星術となり、中国に渡って七星四余などの体系となったとされる(諸説あり)

 占星術も古い時代は七惑星と十二星座で占っていた。しかし、近年土星より遠い星が見つかって十惑星、十二星座で占う体系へと変わった。(占星術では太陽と月も惑星と数える。地球は観測点なので惑星とはならない。紛らわしいので占星術的な惑星のことを以後感受点と表記する)

 更に、将来的には新たな二つの惑星が見つかり、十二惑星×十二星座になるだろうというのが、大方の占星術師達の予測だったのだ。だからまあ、もし冥王星が感受点から外れることになっても、新たに三つの惑星が見つかれば問題はない。

 

 話を元に戻そう、中国占術の最も重要な要素は暦そのものにあるが、前述したようにその暦は10×12の構成となっている。本来この暦もシュメールで生まれた占星術の概念が用いられているとしたら、このこと自体が非常に奇異なことなのだ。

 つまり、十二支が十二星座をあらわしているとすれば(実際そうなのだが)、十干は10感受点を表していた可能性が高いと思われるからだ(私の憶測だが)。しかし、、、そう、当時知られていた感受点は七つしかないはずだ。占星術が10感受点を用いるようになったのは近年のことなのである。これは一体何を表しているのだろう?

 十干がもし感受点のことだとすれば、中国では太陽系に10感受点があると太古の昔から知っていたということになる。。。

 

 ところで冥王星が惑星ではないという意見は発見当初からあった。それが半場強引に惑星に列せられたと思われるのだが、それは後述するとして、その理由を考えてみよう。

 冥王星が惑星として怪しまれてきたのは、一つにあまりにも小さ過ぎる事。次に軌道傾斜角が大き過ぎる事。そして、ボーデの法則と合致しないことが上げられる。

 太陽系の惑星はボーデの法則通り並んでいるが、冥王星はそこから大きく外れている。

 天文単位(1天文単位は太陽と地球の平均距離)で示すと、、、

(ボーデの法則理論値:実測地の順)

水  星:  0.4 : 0.39

金  星:  0.7 : 0.72

地  球:  1.0 : 1.0

火  星:  1.6 : 1.52

小惑星帯:  2.8 : 2.77

木  星:  5.2 : 5.20

土  星: 10.0 : 9.56

天 王 星: 19.6 : 19.22

海 王 星: 38.8 : 30.11

冥 王 星: 77.2 : 39.54

 となり、冥王星の理論値77.2に対して実測値39.54は誤差だとしても大き過ぎるのである。海王星も誤差が大きいが、実は冥王星と冥王星の軌道近くで近年発見されたカロンは共に海王星の衛星だったのではないかという節もあるようだ。

 だからもし本当の冥王星があるとすれば、77天文単位の地点にあるはずなのだ。

 

 さて、このような冥王星が何故惑星に列挙されたのだろう?

 既に皆さんも御存知だと思うが、冥王星はアメリカが発見した唯一の惑星である。私なんぞは、アメリカの強引な推挙があったからではないかと憶測するが確かなところはわからない。遅くなったとはいえ、ここに来て訂正されたのだから、それで良しとしたいところだ。しかし、象徴的な世界観である占星術にはとても重要な意味がある。

 冥王星が発見されたときも、上記のように余りにも違いすぎる数値は解っていた筈で、にも拘らず列挙されたのには有形無形のアメリカの圧力があったのだと思う。つまりアメリカはエセ冥王星をでっち上げた。それは占星術にも採用されたが、このことは偽の冥王星に支配される時代が、その時始まったことを意味していると思う。

 

 冥王星が象徴する意味は、死と再生、オールオアナッシング、核、放射能、油田、地下資源、暗黒街、大変動、政府、国家の要人、黒幕、テロ、極端から極端へ、、、などである。

 

 近代アメリカを彷彿とするのは私の思い込みだろうか?

 だがアメリカと冥王星の占星術的関係は深い。アメリカの建国は1776年7月4日で蟹座の生まれであるが、冥王星が発見された時、当の冥王星は実は蟹座で発見されたのである。まさに冥王星はアメリカで発見されるべくして発見されたようなものだ。これは占星術にとって重要なシンクロだといってよいだろう。

 そしてもし、冥王星がアメリカを象徴しているとしたら、今回の冥王星の陥落が何を意味するか、もうお分かりだろう。強引に作られた虚偽の惑星冥王星、今その座が正され、最も遠い惑星の座を追われた。。。のである。

 

 ところで、冥王星が陥落する直接の原因となったのは、近年矢継ぎ早に発見された、エッジワース-カイパーベルト天体によるところが大きい。冥王星の直系は2300Kmほどしかないが、海王星以遠の場所に冥王星と同等の小惑星が発見されたためである。

 近年の主要なところでは、2001年発見のイクシオン、2002年発見のクワオアー、2003年発見セドナ、2003年発見の2003UB313、2004年発見のオルクス、2005年発見の2005 FY9などだ。こうした小惑星の発見は1990年代後半から始まっているが、冥王星の大きさと比肩する巨大小惑星?の発見は2001年のイクシオン(直系800Km)から始まる。

 2001年といえば、アメリカがイラクの空爆を開始し、あの同時テロがあった年である。

 これら小惑星の多くの正式名には少数民族の創造神の名が冠せられているのも興味深いが、ここでは触れずにおこう。

 

 さて、もし、このような推測が私の思い込みではないとなれば、世界は由々しき事態に陥るだろう。冥王星が静かに座を明け渡すことを願うが。。。

 もともと冥王星の由来となったプルトーは、ギリシア神話では冥界の王ハデスのローマ名である。冥界の王というだけで随分と恐ろしいイメージを持たれる人も多いだろう。しかし、当のハデスは心優しい神として評価されている。

 そのハデスの妻はペルセポネといい春の女神とされる。ペルセポネの母はデメテルといい農業の神、大地母神であるから、ペルセポネの春の神とは種まき(再生)の意味なのだと思う。ちなみにデメテルはもともと東方の神であったとされる。

 いずれにしても、占星術上は本当の冥王星の出現が待たれるよう。

2006/08/27 00:49|命術房:占星術TB:1CM:7
 

別なストーリーを生きる 

 別な記事をアップする予定であったのだが、今朝「武田鉄也の三枚おろし」というラジオ番組で大変面白い話を聞いた。そこで急遽「潜在意識による願望実現は可能か、番外編」として、皆様に御報告したい。

 武田鉄也のこの番組は、平日朝8:30頃に流れる5分ほどのものなのだが、とても面白く私は大のファンなのである。最近は時間も合わず、ずっと視聴していなかったのだが、今日は合気道の師範で甲野氏が出された本がテーマになっていた。

 

 植芝盛平などに始まる合気道の達人方には信じられない武勇伝が多い。その中で、武田鉄也は甲野氏の著作からこんな話を紹介してくれた。

仕事中ラジオで聞いていたので、武田鉄也の言葉を思い出しながら意訳してみると。。。

 

「60にならんとする、初老のそう大きくない男が、20代の体力も充実した若者達を相手にするわけですよ。座っている氏の腕を何人かの若者がつかんで引っ張りあげようとする。。。

 そんなことされたらどうなります?抵抗できませんよね。。。

 ところが、氏はこの若者達を一気に投げ飛ばしてしまうんです。

 物理的に考えても絶対無理な話なのに、投げ飛ばされちゃうんですね〜これが。

 でね、氏はこんなことを言ってるんです。。。

 

 何人もの若者に腕をつかまれて、引っ張りあげようとされる。。。

 引っ張ろうとする彼らに、抵抗しようとする私、このストーリーの中では私を引っ張ろうとする彼らの力は、明らかに私より強いんだから。。。抵抗できるわけがない。

 だから、こんなとき、こう考えるんです。

 

 私は高価で、とてもおいしいお酒の入った杯を持っている。。。と。

 そして、それ以上腕を引っ張りあげられたら、杯のお酒はこぼれてしまう。それは、もったいない!!!って。

 

 するとね。彼らの方がいつの間にか目の前に転がってるんです。

 彼らのストーリーの中にいるのを止めて、ストーリーを変えてみるんです。

 すると、人間の身体ってのは、思いもよらない力を発揮するんですよ。。。。」

 

 という内容だ。

 この内容を聞いたとき、私はとても痛快な気分になった。。。「別なストーリーを生きる!」

 なんと言い得て妙な響きだろう。。。今回は、私の小ざかしい解釈など捨て置いて、皆様の感性に委ねたい。

 

2006/08/25 18:47|山術房:心行TB:0CM:2
 

潜在意識による願望実現は可能かNo8 

 さて、このシリーズも随分と長くなってきた。そろそろまとめておきたいと思うのであるが、潜在意識という膨大な世界を扱うのだから致し方ない。関心のある方は、気長にお付き合い願えれば幸いである。

 

 私のいくつかの体験に寄れば、潜在意識の反応はいつも逆説的だと思うことが良くある。たとえば、何かの目標を達成したいと思うとき、この思考に既に問題が生じている。それは。。。

「達成したい!」

 の、「したい!」という思いが達成されるということである。「したい!」 「欲しい!」 「なりたい!」。。。こうした思いが達成されてしまうということは、つまりは目標は達成されないというに等しい。

 神との対話という本には、この辺を「したい!と言えば、常にしたい!と思う状況が作られる」と書いてあり、なるほどと思ったものである。

 

 そのせいもあってか巷の願望実現本を読むと、現在進行形で考えなさいと書いてある。つまり「達成しつつある」 「手に入れつつある」 「なりつつある」。。。と考えろというわけだ。なるほどこうなると、言語的にもなんとなく力を感じる。

 更に推し進めて「過去形で考えろ」というものもある。「達成した」 「獲得した」 「成った」。。。と考えろというわけだ。

 潜在意識には不思議なことに時間と言う概念がないという。だから、過去形で考えることで、潜在意識その状態にしなければならないと判断し、それを現実化するのだという。が、ひねくれた見方をすれば、潜在意識に時間という概念がないのなら、なぜ過去形にこだわるのだろうと思えなくもない。

 まあしかし、ここまで来ると言葉としては完璧なのかもしれない。だが実際に私たちがそう信じていなければ、まったくの無意味。いくら、言葉を繰り返しても、気持ちが「したい!」の状態を抜け出ていなければ意味がない。

 

 潜在意識にはパトリオット(自動追尾ミサイル)的な機能があって、目標を定めると、自ら軌道修正をしながら私たちを願望の達成へと向けて仕向けてくれるという。

 こうした特性はスポーツの世界で最も広く活用されているようで、イマジネーションの世界で競技を思い浮かべ、うまいプレーをしている様を思い浮かべると、その通りのプレーが出来るというものである。

 本当かどうか科学的な実験をしたところ、実際の身体を動かして練習したチームよりも、イマジネーションの世界で練習したチームの方が良い結果を収めたというデータも出ているのだから、無碍に否定することも出来ない。

 

 しかしそれが、こと願望実現となると、とたんに怪しくなるのは、たとえば100万円の臨時収入があったとイメージしたとすれば、たまたま出会った人と懇意になり、偶然が偶然を呼んで100万円を入手することになったとか。。。はたまた、宝くじに当たったとか。。。知りもしなかった遠縁から遺産が転がり込んで、それがたまたま100万円だったとか。。。そのようなイメージが付いて回るからであろう。

 もし潜在意識が偶然を呼び寄せることが出来るとすれば、これほど心強いことはないが、生粋の因果律論者にとっては思い込みもはなはだしいということになる。

 願望実現論者が、このような時に頼りにするのは決まってユングの共時性だ。願望という思念を潜在意識に送り込むことによって偶然の一致を引き起こしたと、そう説明する以外に、その現象に科学性を持たせることは出来ない。

 私なんぞは、いちいち科学的に説明すること自体、煩わしいと思いもするが、科学万能の世にあって、その方が当の本人も安心するからだろう。しかし考えてみると、そのこと自体、本人が願望実現を信じていないということになるのではないかと、逆にいぶかしく思えてならない。

 

 とは言っても私自身は願望実現の可能性を信じている。それだからこそ、この記事も連載されているわけだが、願望実現の最も大切なところは「信じること」この一点に尽きるだろう。それならば、いたずらにあるの、ないのと考えて自分の信念をわざわざ揺らがせる必要もなかろうと言いたいわけである。

 勿論、これは妄信を薦めている訳ではない。きちんとした理解はそれ自体が力だと思っているが、もし理詰めで考えようとする理由が不安感から来ているとするなら、まず、その辺から見直してみるのも必要ではないだろうか。

 

 そのような訳で、次回からは願望実現の実際的なテクニックや、下準備などを順次考察してみたいと思う。

 

2006/08/21 09:55|心象房:願望実現TB:0CM:15
 

気になるイスラエル 

 イスラエルが停戦に合意し撤退と開始した。そのイスラエルの建国は1948年5月14日である。この年の干支暦は七赤戊子となるが、なかなか複雑な歴史を持つ彼の国だけに、この建国年をもって判じて良いものかどうか迷う。

 そこでユダヤの暦を調べてみると、ユダヤ暦はBC3761年10月6日から始まっている。この年の干支暦は九紫庚辰である。この九星干支を本命星としてみると、建国された1948年、十二支の子はユダヤ暦の辰と三合の関係に当たり、とても良い年めぐりだ。しかし、九紫は暗剣殺となり問題を含んでいる暗示が出ている。

 ユダヤ起源の本命星が暗剣殺となるのだから内部の葛藤を含んでいるであろうし、周囲との摩擦も懸念される。そして、そのような形でイスラエルは建国を決めた歴史的事実もある。

 

 九紫が暗剣殺となれば、兌宮の論争を受け、九紫の闘争とかぶさってくる。1948年の大運は五黄土星で、九紫は離宮に廻っている。離宮は世間に認知させるという意味があるから、この大運の期間内に建国されたのは時を得ているといえるだろう。

 ところで、ユダヤ暦の占盤を作図すると、、、

九紫庚辰                        
 ┌─┬暗┬─┐
 辰8│4│6│
 ├─┼─┼─┤
 定7│9│2│
 ├─┼─┼─┤
 │3│5│1破
 └─┴─┴─┘

と、上記のようになる。

 一白に歳破が掛かり、四禄が暗剣殺、八白に太歳神が付く。そこで、イスラエルの歴史を紐解くと。。。

BC722年:三碧己未年:南イスラエル王国滅亡: 一白歳破が暗剣殺となる年。

BC597年:四禄甲子年:第一回バビロンの捕囚:四禄暗剣殺が中宮に来た年。

BC593年:九紫戊辰年:バビロニアがユダ王国を侵略:ユダヤ暦と同じ九星・十二支

BC587年:三碧甲戌年:エルサレムが占領される:一白歳破が暗剣殺となる年。干支も天戦地冲となる。

BC538年:八白癸亥年:ヤーウェ神殿の再建:八白太歳が中宮に来る年。

1948年:七赤戊戌年:イスラエル建国:九紫が暗剣殺。十二支も冲。

1967年:六白丁未年:中近東戦争:七赤が暗剣殺。九紫は歳破となる年。

1982年:九紫壬戌年:パレスチナ虐殺事件:九紫が中宮。八白太歳が歳破。

という具合である。

 

 イスラエルの出来事はユダヤ暦の本命干支の影響を相当受けていると思われるが、ユダヤ暦の本命星が暗剣殺となる年に再建されたことにより、随分と血なまぐさい事件を起こしている。

 今年は一白暗剣殺の年でユダヤ暦の本命干支、一白歳破とかぶり干支も天戦地冲の状態だ。停戦を決めた今月は八白中宮の月で、ユダヤ暦では八白に太歳が付き、イスラエル建国でも八白に太歳が付いている。つまり、イスラエルにとって相当有利な月であり、相応の条件が提示されたのだろう。

 ちなみに2004年から2023年までの20年間は、八白大運の期間であるから、イスラエルが猛威を振るう可能性はまだまだ十分にある。それも、ちょうど半分を過ぎる頃、つまり2013年前後に変化が起き易い。

 来年は一白が歳破となる年、再来年は一白中宮の年となるが、ユダヤ暦での一白歳破の影が出ないことを祈る。また、七赤辛卯となる2011年は九紫が暗剣殺および歳破となる年。この年、イスラエルはもっとも危険な年となるのではなかろうか?

 



2006/08/16 11:40|卜術房:気学TB:0CM:12
 

盂蘭盆の拝月 

 明日から盂蘭盆である。祖霊を敬う行事として、お盆といえば仏教のイメージがあるが、実際にはこの行事の起源はとても古いという説があるそうだ。

 旧暦の7月15日に行われていた行事であるが、新暦となってからは8月15日に統一された。といっても今でも旧暦で行うと事も少なくないようだが。

 

 じつは、盂蘭盆会というのは2回ある。一つは皆さんご存知のお盆で、久しぶりに里帰りという方もいらっしゃるだろう。もう一つは実はお正月なのである。

 正月の盂蘭盆会は祖霊を神格化して年神を祭る。この神は歳徳神といって、気学にも出てくる重要な神となっているが、実際のところはスサノオと神大市比売(おおいちひめ)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)のことだ。

 一年の初めに皇祖神の祭りをし、そのちょうど半年後に自分達の祖霊を祭るということなのだろうが、考えるまでもなく皇祖神は天照大神だから、これはちょっと変な話だ。

 

 スサノオとオオイチヒメとの間にはもう一人の神が生まれている。それが宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、穀物の神様だが、お稲荷さんといった方が分かりやすいだろう。

 だから、この盂蘭盆会は祖霊と居食を共にするという意味合いがあるのだろうと思う。神話を読めば、黄泉の国の食べ物を口にすると、もはや黄泉の国の住人になるしかないと書かれている。となれば、盂蘭盆会は祖霊を招いて居食を共にするのだから、祖霊は黄泉の国に帰れないことになる^^;

 これは、死者の復活を願った密儀なのではないかと思ってしまう。

 

 旧暦の7月15日、1月15日といえば、いわずと知れた満月の日である。満月の日には人の直感も非常に高まり、月は死者たちの住処という考えもあったから、満月の日ははなはだ都合が良かったのである。

 盂蘭盆会で共通なのはなんと言っても盆踊りだろうが、これも、地獄の釜のふたが開き、喜び踊る亡者達の姿を模したものだと言われているようだ。しかし、この手の踊りは、昔から鎮魂の密儀ととして用いられても来た。今でも日本の国技相撲の四股にその名残を見ることが出来る。

 四股は塩で清めた大地を踏みしめて、その地を祓い清めることなので、いつしかそれが踊りの形になったのではないかと思うが確かなところは分からない。 

 

 残念なことに今年の旧暦7月15日は8月8日だったので過ぎてしまったが、このようなことを些かでも念頭において墓参すれば、いつもの墓参りとはまた趣が異なるのではなかろうか。

 

2006/08/12 14:18|暦の話TB:0CM:5
 

アポロン的秘儀とデュオニソス的秘儀 

 ギリシア神話に出てくるこの二人の神を対比する思想を明らかにしたのはニーチェだろう。それが神秘思想にも流用され真理を探る二つの流れを示す言葉として用いられるようになった。

 アポロンは太陽神であり、言ってみれば白日の下にさらされている事象を扱う。これに対比して酒神デュオニュソスが陶酔と激情を象徴する神であることから、非常に主観的な事象を探求する象徴として使われる。

 いささか乱暴に言ってみれば、アポロン的秘儀は顕教を扱い、デュオニュソス的秘儀は密教を扱うといったところだろうか。。。

 

 デュオニュソスの神話を読むと、この神の評価はあまり宜しくない。何しろ酒に酔わせて信仰を集めたり、自分を信仰しない民衆を狂わせたり、動物に変えてしまうなど、神にあるまじき乱暴を働いているのだからやむを得ない。

 しかし、一方でデュオニュソスが非常に古くから信仰を集めていたことも分かっている。もともとは大地(農耕)の神であり、当時は農耕というと植物のサイクルを扱うことから、これらの神は死と再生の神とも崇められてきた。

 一説に牛の心臓から生まれたとされるデュオニュソスだが、ヨーロッパの語源であるエウロパはゼウスの妻神ヘラに嫉妬から牛に変えられたのだから、まさに彼はヨーロッパ文明の中心的な意味合いを持っていることになる。

 実際、彼はギリシャ文明の発祥地、ミュケナイで古くから信仰されてきたことが分かっている。その古さは十二神に数えられるゼウスやポセイドンと同じだというのだから、重要な神であったことに違いないだろう。

 農耕と豊穣の神であった彼が、やがてこの地で発展した葡萄酒と結び付けられても、そう不思議なことではない。

 

 酒は人を酔わせ知性を酩酊させる。これだけなら単なる酔っ払いの神だが、それが死と再生の神でもあるとなると、にわかに、あらぬことを想像させる。つまり、酩酊は一種のトランス状態で、それが死と再生につながるとなれば、今風に言えばチャネリングだとか、巫女的なイメージを彷彿とさせてもおかしくはないだろう。

 勿論、死と再生というからには転生に関わる概念をも含んでいだろう。実際デュオニュソスも生みの親を救いに冥界下りをし、見事に救い出している。

 ここまでお読み頂くと、デュオニュソスの秘儀がどのようなものであるか、そのアウトラインが見えてくるだろう。

 

 だが、ここではもっと身近な問題として扱いたい。冥界下りの物語は、私たち自身の心の深奥に至ることであり、生みの親を救い出す物語は、心の中に取り込まれたトラウマの開放と読み替えることが出来るのではないかと思うのだ。

 そう考えると、酩酊は深い内省の状況と見ることが出来るし、本能のままに踊り狂う様は、トラウマ的なものの噴出と考えることが出来る。

 

 デュオニュソスの秘儀では、因果律を超えて物事を見る習慣を重視する。

 たとえばあなたが部屋でくつろいでいたときに、一匹の蝶が迷い込んできたとしよう。この蝶はあなたとどんな関係があるだろう。勿論、普通に考えるなら、それは単なる偶然であり、あなたとはまったく関係はない。せいぜい、部屋の明かりに誘われて入ってきたという因果律が成立するぐらいだろう。

 しかし、デュオニュソス的な秘儀では、そこに大切な意味があると教える。内にあることは外に起こるからである。

 だから、その蝶は、あなたの心の何かに反応して、やってきたのであり、その意味を紐解くことが心の闇(冥界)の部分を知り、そこから救い出すこと(転生)が出来ると考える。

 まるでユングの共時性であるが、これがデュオニュソスの秘儀を支えている大きな要素だといえる。しかしもう一歩、歩を進めてみよう。

 

 たとえば、あなたが道を歩いていると、向こうから密かに慕っている人がやってきた。その人はあなたに気づき、声をかけてくる。あなたはとっさに持っていたカバンを抱きかかえ、ちょっとびっくりした仕草をする。

 これは、どこでも、いつでも起こりえる風景だが、ここにどんな意味があるだろうか?

 心理学的な知識がある人なら、あなたがカバンを抱えることで、無意識的に距離を置こうとしているというかもしれない。あなたは、その愛に少しかもしれないが恐れがある。。。と。

 しかし、デュオニュソス的な秘儀ではもう一歩、進めてしまう。あなたはその相手との間にカバンを置いた。そのカバンには何が入っているのか?と。

 

 カバンを開けてみると、そこには先ほどコンビニで買ったファッション雑誌。それに電池が切れかけた携帯。。。それを見て、デュオニュソス的な分析者はこういうかも知れない。

 あなたは自分の外見にコンプレックスがあり、たとえ交際をするようになったとしても、すぐに飽きられ、別れることになると思っている。また、あなたは自分の意見を理解してもらえないと思っているだろう。。。と。

 

 考えてみると、この分析は、占術に相通ずるところがある。占術は一見何も意味のなさそうなところに、意味を見出すからである。もし、この見方に慣れてくるなら、私たちはあらゆるところから、必要な情報を導き出すことが出来る。

 

2006/08/08 14:52|山術房:心行TB:0CM:8
 

遙かなる記憶? 

 いつこの記事を書こうかとずっとチャンスを伺っていた。それは私の前世とおぼしき記憶の体験である。ある方の記事に触発され、今こそその時期ではないかと勝手に解釈した(笑)

 

 当ブログではカルマなど度々取り上げてきたのであるが、実のところそれらは皆一般的なカルマ観を前提に書いたものであった。その方が多くの共通認識として理解されやすいだろうと判断していたからである。 しかし、この記事を書くに当たって私の前世観を明らかにしておく必要があるだろう。

 まず、大前提を言えば、私は全ては一つと考えていることを繰り返し書いておきたい。もし全てが一つなら、あらゆる人の前世は自分のものであり、且つあなたのものだと言うことになる。こうなると前世だカルマだと言っても無きに等しい。

 もう少し具体的に言えば、ここにたっぷりと水が張ったお風呂でもあるとしよう。その中にはいくつものコップが浮いている。このコップはそれぞれ私であり、あなたであり「肉体的な個」を示している。コップの中にはお風呂の水と同じ水が満ちている。だから、コップを浮かべている水と、コップの中にある水は本来同じもので、同一の源泉によっている。コップで隔てられているという以外異質なところは何もない。死とは、コップを取り上げて中の水をジャーッとお風呂に返すようなものである。

 コップの中にあった水は時間と共にお風呂全体に行き渡る。それでも、もともと、そのコップの中にあった水が無くなるわけではない。いつも、変わらず、存在し続ける。

 

 では生まれ変わるとはどういう事だろう?

 簡単なことだ。先ほど水をぶちまけたあたりから、同じコップで水を汲み出すことに他ならない。タイムラグが小さければ小さいほど、先ほどのぶちまけた水を掬い取ることが出来るだろう。しかし、本来コップに入っていた水とまったく同じではない。ほんの一瞬にでもコップに入っていた水は拡散し、再度汲み取った時には別な水が混ざり込んでいるだろう。これが生まれ変わった自分である。

 タイムラグが長いほど、つまり転生のサイクルが長いほど水は拡散する。しかし、サイクルが短いほど前世の記憶を保持することになる。これを個体の生まれ変わりと解釈するかどうかはとても微妙だ。あなたは決して失われない。しかし次に生れてくる時は完全に今と同じとも言えない。

「コップは同じだろ」とあなたは言うだろう。でも、このコップが、お風呂の水を凍らせて作られた氷のコップだとしたら?

 これが私の転生観でる。だから、前世の記憶といっても、それは私独自のものとは限らない。たまたま掬い取った水の中にその様な因子が混じっていたと言うだけに過ぎないだろう。

 この仕組みのキーワードは「時間」である。さて、それでは紹介しよう。 

 

 それは私が高校三年の時の出来事である。寝る前に簡単な瞑想を済ませた後、私は部屋の中央に敷かれた布団に横になった。すると間もなくそれは始まった。寝ようとする私の意に反して頭が妙にすっきりとする。まだ寝ていないと自分でも自覚があるが、その状態で既に夢?の世界に突入していた。

 私の部屋は長方形の形をしており、窓の方に頭を向けて寝ると右下の足下の角の所にドアがある。横になってはいたが何となく意識をドアの方に向けると、ドアは既にそこにはなく中央のやや右よりの所にあった。

 不思議なことが起き始めたと頭の片隅で冷静に分析を始めた自分。もう一度見直すと、その入り口はドアが無く(開いていた?)廊下を隔てた向こうに紺碧の海が見える。港町なのかもしれないが、扇を広げた形に町並みが広がっており、その部屋の対岸には岬が見え、湾になっている全景がわかる。

 

 町並みはどう見ても現代ではなく、少なくとも数千年は前の時代だという印象を得た。一別して気候は温暖なようだが熱帯ではない。海側を手元に置いて広げた扇のような町並みの中央には一番大きな道路が通っていて小高い丘の方へと伸びていた。

 海と山手の丁度中間の所に池を中心に置いた広場があり、そこから十字に大きな道路が延びている。その広場を通り過ぎて山手に向かうと、その小高い丘の上に王宮のような神殿のような建物がある。一見すると古代のギリシア風の建造物を思わせるが、それとも異質な感じもする。

 私のいる部屋は、海から見て左手の方にあるが、町並みの全景を遠望するような視点から見ているので、中央にある王宮のような建物よりも高いところにあるとわかった。

 

 その宮殿の裏手には結構広大な草原地帯と湖?があり、更に奥にはかなり高い山がある。もっとも、この情景は本当なら見えるはずはない。何故なら自分のいる場所からは壁に遮られて見えるはずはないからだ。それでも、こうもはっきりとわかるのは日頃から見慣れた景色に違いないからだと分析していた。

 そこで、もう少しよく観察しようと身を起こそうとした時、自分が身動きできないことに気が付いた。金縛りか?とちょっとしたパニックに陥った。遠くばかりを見ていて気が付かなかったが、よく見ると、部屋の中央に寝ていたはずの自分はいつの間にか部屋の片隅にあるベットに寝ている。確かに布団に寝ていたはずなのに。。。それも、まるで煎餅蒲団かのように寝心地は最悪だった。

 もっとも、気が付くと私の全身は包帯でぐるぐる巻きにされていたから、そのせいなのかもしれない。あたりを観察しようと身を起こそうとした私の全身に激痛が走った。

 

 痛みに身を起す半場で固まった私に女性が語りかけた。

「ムーア大丈夫?」

 その女性は金色の髪を腰近くまで伸ばしており、純白の古代ギリシアのローブのようなものをまとっている。透き通った声に語りかけられ、頭の中では「この人は誰だ?」と思っているのに、勝手にこう答えていた。

「ああ、ラーナか」

 どうやら私はその女性に看病されているようだった。金色の髪と深い碧の目、そしてあまりにも透き通る風のような声が印象的だった。その女性は当然のように私を看病し、私もそれを自然に受け入れているが、実際の所この女性はいったい誰なんだといぶかしんでいた。

 

 すると、先ほどの入り口の方をとても体格の良い男が通りかかった。 その男は

「起きたのか」

 とこちらを見て一言発するとすぐに向こうへ行ってしまった。だが、この男を見たとき、何かわからないが大きな戦があったのだとそう感じた。

 

 このあまりにもリアルな夢?を見てからというもの、私の神秘体験は怒濤のように始まった。短期間の内に霊視、透視、テレパシー、予知といったものらしきものを体験することになる。それはあまりにも短い期間に起き、そして過ぎ去ったので今でも本当だったのだろうかと思うこともあるが、多くのことを理解する助けになっているのは確かなようである。

 私はこの時、この地区がいわゆるムー大陸なのではないかと疑った。もちろん地質学的にはムー大陸が存在したという証拠は全くなく、むしろ否定的な見解しか出てこない。

 だが後年、旅行か何かのパンフレットでニュージーランドを見たときに、この夢の地形と酷似していたのを見て驚いたことがある。だからといって同じ場所だという確証は全くない。しかし、不思議なことに私の出生時間からニュージーランドでのホロスコープを作成すると、もっとも良い運勢となる。いくつかの主要な地域で調べてみたが、その様な運勢となるのは地球上でニュージーランド一カ所だけだった。

 

 もし、これが前世の記憶であるとするなら、私のその記憶の中ではもっとも古い時代の記憶と言うことになるだろう。このあと、いくつかの生をかいま見ているが、いずれまた紹介する機会があると思う。

 

2006/08/03 12:47|心象房:霊学TB:0CM:18
 

潜在意識による願望実現は可能かNo7 

 今回は瞑想で物事がうまくいかない原因の「核」を探ってみようというテーマです。瞑想というのも大げさで願望実現のリラクゼーションを、核を探すために使えないかというものです。

 

 ダイアネティックスでは、私たちの「核」が思い出せない記憶の中に潜んでいると考えられています。正確には同じ思い出せない記憶でも、他のものとはちょっと異なった記憶のされ方をしているとされているようだ。

 というのも、この「核」はある種のショックによって形成されるので、通常の忘れて思い出せない記憶とは異なるためである。薬物にせよ、身体的痛感、精神的な痛感にせよ、この手のショックを受けたときにはエゴの空白が出来る。この空白域に書き込まれたのが「核」になるわけだ。

 だから普通の記憶とは別な所に貯蔵されており、普通の手法で思い出せるものではない。順当に考えるなら「核」が形成されたときと同じ状態、つまりエゴの空白域を意図的に作る必要があると思われる。

 

 しかし、日常生活では私たちのエゴはめまぐるしい活動を繰り返し、一時も休むことがなく、この状態では決して思い出すことは出来ないだろう。「核」を思い出すためにはエゴの働きを休止し、人工的に空白域(無)を作る。考えてみればこれは瞑想と同じ状態ではないだろうか。

 そこで、瞑想とまでは行かなくても、思考を休ませ、緩やかにすれば「核」となった出来事を思い出せるのではないかという発想が湧く。実際私は、この手法を活用し、いくつかの「核」を思い出すことが出来たのであながち的外れでもなかろうと思っている。

 一番中心にある「核」に到達するには、それ相応の時間が掛かる。というのも最も中心となっている「核」は、その後に付着したマイナスの記憶に包まれているからだ。だから一気に中心部に攻め入ることは恐らく不可能だろうから、タマネギの皮をむくように一つ一つ辿ってゆかなければならない。

 それでも、一枚の皮を見つけると、そこからは芋ずる式に出てくることも多いので以外と楽になる。

 

 ここまで書くと、どのようにするべきかは説明を要しないだろう。心身ともにくつろがせ、出来るだけ思考を緩やかにする。そして、少しばかり、自分が抱えている問題の原因を思い出すように注意するだけである。ただ、あまり注意を向けすぎるとエゴの活動が再開しうまくいかないようだ。

 もともと、不思議と潜在意識には問題を修正させようとする働きがあるので、そうムキにならなくてもある出来事が浮かんでくるようになる。それが見つかったときは「これだ!」と思うはずだ。後は、目を開けて、その出来事をしっかりと思い出してみると良い。

 不思議なことに、その出来事は「意識的に思い出せるはず」である。

 

 さて、ここで少し、「空白域」について考察してみたい。空白域にある記憶はとても単調でシンプルなものであることが多い。この理由はあることに起因しているのではないかと思う。

 私たちの心、ないし記憶は、その内容によって記憶される領域が異なる。

(断言したように書いてますが、私は専門家ではないので、ここからは私の推測だと思ってください)

 私たちの精神活動は意志、感情、思考、本能の入り交じったものだが、通常は思考と感情が主体になると思う。(正確には思考も感情も本能などの基盤の上に出来ているが)。しかし、痛感を刺激されたときや薬物により思考力が弱まったときは当然思考や感情は異質な状態になり上手く機能していない。

 例えばあなたが、敷居に足の指でもぶつけたとしよう。その瞬間あなたの頭の中は真っ白になるはずである。しかし、一方で身体は勝手に痛みを察知して体を丸め、ぶつけたところを抱えようとするはずだ。これが何を表しているかというと、身体の動作は思考や感情と別な機能で働いていると言うことだ。

 当たり前のことだが、では、頭が真っ白になっているときに聞いた言葉はどこに記憶されるのか?それは動作を司っている脳の領域ではないかと思う。

 

 動作を司る脳の領域では、善悪の判断をせずに(善悪は思考の領域だから当然だが)、その時の言葉を機械的に記憶してしまう。そして、以後はその記憶に従って身体を動かすことになるのではないだろうか。

 格闘家などが相手の攻撃を受け、意識をなくした状態で戦っていた。という話を聞くが、丁度同じ事がこの時に起こる。例えばこの時、右フックを受けて意識をなくしたとしよう。その後、身体は勝手に応戦して何とか身を守った。すると、以後は右フックを見た瞬間に身体は私たちの思考を奪い、勝手に応戦しようとするだろう。

 悪いことに、私たちの脳は大脳の司る思考よりも感情、感情よりも本能や運動中枢の方が完成されているから、運動中枢のこの試みは常に成功するということだ。

 大脳(思考)が出来ることは、せいぜい動作中枢が勝手にやったことに納得の行く理由を付けることぐらいだ。

 

 これを修正するためには動作中枢が勝手に取り込んだ記憶を、一度表面に呼び戻し、本来あるべき位置に記憶し直すしかないというわけである。

 

2006/08/02 17:02|心象房:願望実現TB:0CM:4
 
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