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趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

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Author:やわたうま
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詰込み教育の是非 

 皆様から頂いたコメントを通して、あらためて教育ということを考えておりました。私の娘達は既に社会人となっていますので、もはや教育という言葉とは縁が薄くなっています。それでも、以前考えていたことを振り返りあらためて考えてみると詰込み教育の是非に思い至ります。

 詰込み方教育の弊害が叫ばれるようになって久しく、その反省からゆとり教育とか情操教育ということがクローズアップされました。そのゆとり教育のカリキュラムを組み込むために他の時間が削れら、また週休二日制が導入されてますます授業の時間が減りました。

 当然授業に避ける時間は減り、それに合わせて娘達の教科書が年々薄くなっていったのを覚えています。

 そんな中、詰込み形の教育は本当に間違っているのだろうか?と、考えたのを思い出します。当時から私はどうも本当の問題点が摩り替えられているような気がしてなりませんでした。多くの専門家の方々が検討し出された結論であるとは思いますが、私の疑問を少し書いてみたいと思います。

 

 現代では印刷技術や流通経路が発達し書物は私達の周囲に氾濫するようになりました。とても豊富な情報が公開されているわけで、望めば多くの情報が手に入ります。その絶対量は印刷技術の発展する昔とは比べ物にはなりません。

 紙が発明され、情報が後世に伝えられるようになっても、書物は長いこと、とても高価なものでした。一冊一冊が手書きでしたし、印刷技術が発明されてからも大量に生産し流通させるのは簡単なことではありませんでした。

 そのため勉学にいそしむためには書を借りてきて書き写すか、丸暗記をするしかなかったわけです。反面、書が流通し始めた現代、私達は丸暗記をする必要はありません。調べれば済むわけですから。もちろん学校での試験の際は覚えておく必要はありますが。。。

 

 近年このような丸暗記の勉強法で突出した偉人といえば真っ先に思い出すのが南方熊楠です。詳細は省きますが、慶応3年、1867年生まれの彼は、近所の裕福な家の土蔵に篭り、書を丸暗記しては家に帰って書き写すということをしていました。そうして作られた熊楠の本は本物と寸部も違わなかったといわれます。

 彼ほどの偉人ではなくても、仏教の僧侶には仏典を何百巻何千巻も暗誦したといわれる人物が多く排出されています。またユダヤ教ではトーラー(聖書・モーゼ五書のこと)を子供の頃から暗誦させられるといいます。このような逸話を持つ偉人は洋の東西を問わず、過去には多く存在していたのではないかと思います。

 

 人間の記憶力の限度の無い深みを思い知らされますが、この手の記憶量を獲得するには右脳の働きがとても重要であることが知られるようになりました。膨大な情報を記憶する回路は左脳ではなく右脳にあるといわれるのです。その右脳は情緒に関係し、日本における右脳開発の第一人者七田眞さんによりますと。右脳を開発すると人間は優しくなると明言しておられます。

 膨大な情報を記憶するためには右脳の働きがどうしても必要です。右脳は論理的な思考とは無縁で、基本的に丸暗記の脳ということになります。詰込み形の教育というのは言ってしまえば丸暗記教育ということになると思うのですが、それの何処がいけないのか。。。

 

 ところで、とても長い文章などを丸暗記しようと奮闘した経験がある方なら解ると思いますが、長文を覚えるために何度も何度も読誦していると、自然とリズミカルな節が付いてきます。文節ならぬ音節が出来上がるわけで、これが覚えるために一役買います。

 お坊さんがお経を覚えるにも、この音節はとても重要な役目を果たしますが、リズム、音節は右脳を刺激する要素です。つまり、丸暗記は愛の脳である右脳を開発するということになります。

 ユダヤ教でも聖書を暗記させるために面白い方法が使われます。言葉もわからない赤子の時から、その訓練は始まります。どの様にするのかというと聖書に蜂蜜を塗って赤ちゃんになめさせるのだそうです。「好きになる」が教育の第一歩というわけで、とても興味深い方法だと感嘆いたしました。

 好き、嫌いというのは右脳の支配分野です。となれば、蜂蜜をなめさせて聖書を好きになると、聖書を暗誦する時、右脳は大活躍をするでしょう。実際、その様にして聖書は伝えられて来た訳ですから驚嘆に値します。

 

 また大和言葉には言霊が宿ると言われますが、昔の日本人の言葉のスピードはとてもゆっくりとしたものだったそうで、同じ言葉を話すにも現代の3倍以上の時間がかかっただろうといわれます。3倍も時間をかけて、ゆっくりと話すのは恐らく現代人には容易に出来ることではないでしょう。ところが、ここにある秘密があります。

 これも実際にゆっくりと話してみるとわかりますが、きわめてゆっくりと話すと言葉は唄になってしまいます。もちろん、唄(音楽)は右脳の司る分野です。つまり力の宿る言霊には右脳が関係していることが容易に推測されます。

 さらに、ゆっくりと話す時、とても長い吐息が必要になります。これは瞑想で言う調息にあたり、気持ちを静め心身をくつろがせます。つまり、脳の状態をアルファ波にする効果があります。また、ゆっくり話すことがイメージを沸き起こらせることにも気付かれるでしょう。

 このような習慣が右脳を開発し、言葉に力を持たせたのではないかと思えます。そして、実際日本人は世界でも類の無い右脳系言語の民族です。

 

 さて、もう私が何を言わんとするか御理解頂けたと思います。丸暗記主体の記憶法は決して悪い方法ではないと言うことです。

 記憶方法にも左脳型の記憶法と右脳型の記憶法があります。左脳型の記憶法は「意味」がとても大切になります。「意味」を覚えないと記憶できないのです。一方で右脳型の記憶法はもともとが丸暗記で意味は後から付いてきます。

 左脳型の記憶法は理解しなければ覚えても意味がありません。一方で右脳型の記憶法は中身がわからなくてもとりあえず覚えておくという方法です。身近なところでは九九の暗誦などがどなたにも経験のあるところでしょう。

 学校での記憶は「意味」に重点が置かれますが、恐らく、このあたりに「詰込み形教育」の弊害があると言われるのでしょう。前述したように左脳で覚えるためには「理解」が必要です。ところが左脳は右脳に比べ大量の記憶をするには向いていないのです。

 学校で一日何時間も授業を受け、それを全て覚えておくなんて、どだい左脳には無理な話です。詰込む先が間違っているのではないかと思います。

 

 日常を見ていても、自分のすること、人のすることの「意味」を知りたがる人が殆んどです。意味もなくすることは悪い事という感覚が出来上がっているとしか思えません。私達がなんにでも意味を求めてしまうのは、明らかに左脳の影響で、良くも悪くも学校教育の効果が現れています。

 けれど、左脳はエゴの場所といっても良いくらいです。左脳の思考は相対性の中にあるので、何でも比べたがります。そして違いを見つけ出し、その違いの意味を理解する。これが左脳の思考法ですから、左脳の原点は「競争」といっても良いでしょう。

 良い方向にむけられれば切磋琢磨の向上心となりますが、競争に負け続けると過大なストレスが貯まり、異常な判断を示し始めます。もし、詰込み教育を左脳に対して行えば、そのストレスは極限へと増大することになります。

 それに、もともと左脳は「ゆとり」が苦手です。いくら教科書を薄くしても左脳主体の教育方針では「ゆとり」は生まれないと思うのですが。。。

 

 このように考えてみると、詰込み形の教育は決して悪くは無いと思うのです。ただ、それを右脳にさせるか、左脳にさせるか、、、そのあたりが曖昧なのでは無いでしょうか。

 だから、単純に学習量を減らせば良いという発想ではなく、授業の中身に見合った学習の仕方がとても大切だということ。右脳をうまく働かせるには「好き」という感情を上手に呼び起こすこと。。。が必要になってきます。皆さんも例えば好きな教科なのに先生が嫌いだから覚えられない。。。とか、あるいは逆の体験されているのではないでしょうか?

 そしてその記憶の度合いを点数で判断する。。。このような判断基準こそ左脳的判断を中心に置いている事が解ります。左脳を働かせすぎると、自他の分離(自分勝手)、競争心、敗北感からの無気力化、ストレスに弱い人格が生まれます。

 

 私が子供の頃は点数で判断されるのは中学校からでした。でも、今では塾だのなんだのと小学校や、ひどい時には幼稚園から篩いにかけられています。最も右脳的なものが育つ時期に、右脳そっちのけで左脳教育をされるのですから、その弊害は計り知れないとこそ思います。

 実にそれが現代教育の問題点なのではないかと思った次第です。

 

2006/10/29 13:30|雑記TB:1CM:4
 

 



ずっと前に、鯉を釣り上げた。
自分の手で殺し、自分の手で捌き、食べる。。。
とても単純な行為。

でも、だからこそ、そこに命の尊さを感じた。


私の娘たちがまだ幼かった頃。
娘たちは「お肉が大好き!」といっていた。


ある日キャンプに行って牛を見かけた。
「おお、お前たちの大好きな牛だ!」
というと、娘は
「私がすきなのはギュウ(牛)だよ」と答えた。


娘たちにとって、ギュウと牛は違うのである。


同じものだとわかり「食べたくない!」と言う娘。
「食べなさい!」と言う私。
その日、
娘たちは大好物のバーベキューを、さもまずそうに食べた。


いのちの尊さを教えてくれるものは、いのち以外にはないのだと私も学んだ。
そうすること以外に、どうやって命の尊さを
教えることができるだろう?


大きくなった娘たちは、そんなことがあったことすら忘れているだろう。
でも、
あの日に感じた命の尊さは、
娘たちの心のどこかに残っているはずである。


私は、娘たちに何も教えることはできない。
けれども
学ばせることはできるのかもしれない。
娘たちが、体験の中から、自ら学んだように。。。
私が、鯉から学んだように。。。

 

 上の文章は以前私のホームページにEssayとして掲載していた記事の再掲です。

 命、、、とても重い言葉です。精神世界に入り込むと、その死を克服し乗り越える事が目標になります。

 死を見つめ、その中に自分を見つけ出してゆく作業。自分とは何者なのか、自分が自分で在る為に如何に生きるべきなのか。。。自分にとって幸せとは何なのか。。。

 そういう諸々の疑問は、詰まるところ、人生をどう生き切るかという、自分に対する問いでもあります。

 

 自分の生を真摯に見つめる時、人の生も尊重せざるおえなくなります。

 

 私は子供の頃プラモデル作りが好きで、子供としては結構高価なプラモデルを買ってきては寝食を忘れ没頭したものです。寸暇を惜しんで一生懸命作り上げた時の喜び、満足感は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。

 それだけ精魂かけて作り上げたものを、ちょっとした不注意で弟に壊された時、言いようの無い怒りと悲しみが込み上げて来たのも昨日のことのように覚えています。

 しかし、それだけ一生懸命作り上げたものだから、そこに形あるものの無常を感じましたし、同じように一生懸命誰かが作り上げたものを自分は壊すまいと思ったものです。

 

 正直なところ、ねだればすぐに買ってもらえ、リセットすればいくらでもやり直せる。。。その様な環境では「何が大切か」を知る機会はとても少ないと思わざる得ません。

 人の大切にしているものが解るためには、その人も大切なものを持たなければなりません。痛みを知るためには、自分も痛みを経験しなければ解らないでしょう。

 

 ひところ「話せば解る」という言葉をよく耳にしました。しかし、私は今でもそれには懐疑的なのです。体験が無ければ話しても解らない。。。というところが正直な感想です。でも、どれほど貴重な体験を子供達はしているのだろうと思います。

 この手の話はとても裾野が広く、一概に何かを取り上げて、だからこうだと言う事は出来ません。でも、身近なところから、何かを伝えてゆかなければ世は変わって行かないでしょう。誰かを当てにするのではなく、自分たちが出来るところから、自分たちの手で。。。

 

 言い尽くされたことですが、社会を変える潮流は、私たち一人一人が担っています。誰かに任せることは出来ないのですから。

 起きた事をあれこれ論評することは簡単です。でも、それでは「私には何が出来るだろう?」世を変える基本はいつの時代もそこにあると思います。

 今回、あらためて、そのことを思い出せて頂いた、みにかさん、mintさんに感謝いたします。

2006/10/24 14:51|山術房:心行TB:0CM:5
 

四諦八正道 

 中学生の頃、ある書がきっかけになって八正道に廻り合った。その書との出会いは当時の私に大きな影響を与えることになる。今でも、その影響は大きいだろう。

 その書で勧めていたものが八正道であったから、中学から高校生活の数年間を私は八正道と共に過ごすことになった。

 当時は八正道を日々の自分を回顧し反省することと理解していたのだが、今にして思えば随分と稚拙な解釈であったと思う。もっとも中学生の頃の私にとっては精一杯の理解であったのだが。

 

 その八正道は仏教の四聖諦に由来する。四聖諦とは苦諦、集諦、滅諦、道諦の四つのことで、仏教の四つの真理とされている。

 苦諦とは「人生は苦である」という仏陀の喝破である。人生には四つの避けようの無い苦しみがある。それが「生・老・病・死」の四苦で、この世に生れ落ちると同時に、誰もが必ず対峙する苦しみとされる。

 そして生存に伴う四つの苦しみがあり、それを

 

愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れる苦しみ。

怨憎会苦(おんぞうえく):憎い人、嫌いな人と会わなければならない苦しみ。

求不得苦(ぐふとっく)  :求めるものが得られない苦しみ。

五陰盛苦(ごおんじょうく):五感や本能など身体的なものから生じる欲求の苦しみ。

 

 となる。生老病死の四苦と合わせて八苦となり、四苦八苦という。ちなみに苦を九とみて、四苦(九)は36、八苦(九)は72なので足して108の煩悩というわけだ。

 このように仏陀は苦諦をもって人生の苦しみを解き明かす。

 

 次が集諦で苦集諦ともいう。この解釈にはいくつかの説があるが、一般には苦しみの原因を集めることとされているようだ。仏陀は苦の原因を十二縁起というシステムで説明しているが、苦しみの原因である貪欲さや、無明、渇愛の心が生起する様を説く。

 この苦を滅し、涅槃へと至って煩悩から離れた境地に至るのが滅諦である。いわゆる解脱の境地がそれだ。その解脱へと至る方法論を説いたのが次の道諦であり八正道というわけである。

 八正道は正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定と八つある。文字通り読めば正しく見て、正しく考え、正しく語り、正しく働き、正しい生活をし、正しい努力をし、正しく念じ(祈り)、正しい禅定に入る。。。となる。

 まさに子供の頃はその様に理解していたのであるが、そもそも「正しい」とはどの様なことかが明確ではないので、まさに稚拙な解釈であったと赤面する。それでも、この八正道は自分を見つめる大きなよすがであったと思う。

 その正しさを見つけ出すために、当時の友と随分と正しさについて語り明かしたものである。

 

 しかし実際には、八正道で言われる正しさとは、それほど曖昧なものではない。例えば正見については、こう書かれている。

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名づく。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱す。」

 平たく言ってしまえば、私達は第一印象に支配されている、見た目で印象を決めてしまい、実際に相手がどのような人かは関係が無い、その様な眼の働きの無常を知って惑わされるなということだろう。

 もっと単純に言ってしまえば「ありのままに見る」ということになるだろう。そのために、自分の印象がどれほど先入観や見た目に影響されているかを観察しなさいということだ。もっとも、これは「見る」事にとどまらず、私達が感じること全般を示すと思って良いだろう。だからもう少し言えば、五感に感じる印象がいかに無常なものかを知りなさいということになる。否、知るだけでは足りない、痛感せよという。

 

 この正見を達成するために、いかの七正道があるといっても過言ではないだろう。その無常を去るために、

正思惟では五欲から生じる心一切を否定せよと教え、

正語では無駄話や、言葉を飾ること、二枚舌、悪口、中傷を語らず、また解らないことを語るなという。

正業では、業(カルマ)を生じさせるような一切の真似をするなと示す。

正命では無明を去る生活をせよと教え、

正精進では正命による生活をひたむきに努力せよと教える。

正念では精神を集中して自分の身体的なところから生じるものを観察しろと言い、

正定では心を乱すなと教える。

 それもこれも正見、、、ありのままに見るために必要だと教えているわけである。

 

 このようにして人は苦の原因をようやく滅することが出来るというわけだ。こうして八正道を振り返ってみると、何とも厳しい話である。こうして見出された私達のEgoとは一体何者なのだろうかと、訝しくすら思えてくる。だが、こうしてこそ、初めて自分が見えてくるとも思える。

 ソクラテスは「汝自身を知れ」と言ったといわれる。正確にはデルフォイの神殿に書かれていた言葉であるようだが、いずれにしても「汝自身を知る」とはかくも難しと思う。

 

 このように八正道は単なる反省とは全く違うものであったのだが、それでも八正道を行ったことの意義はとても大きなものだと思う。というのも前述したように「正しさとは何か」と考える機会を随分と貰ったのだから。。。今にして思えば、その誤解が、結構な副産物を生んでくれたように思う。

 

2006/10/23 00:05|山術房:心行TB:0CM:2
 

禁じ手 

 この時期になると先年亡くなった叔父を思い出す。命日はまだ先なのだが、祖母の命日に入院することとなった、その祖母の命日が近いからである。

 占術では人の死期を占うのは禁じ手であるが、一度だけ禁を破って占噬したことがある。それが叔父の入院に際してのことであった。祖母の命日に、もともと持病を持っていた心臓が悪化し入院。あまりにも縁起の悪い話につい噬を取ったのであった。

 人の生死をブログに書くのは憚れる事この上ないのであるが、当ブログにお越し頂いている方なら既に御存知のように、当ブログは私の遺書という意味合いを持っている。そこで、いつか自己戒の意味を込めて、私の子供達に書いておきたいと思っていた。どうか御容赦願い上げたい。

 

 私の叔父は11月に持病の発作を起こして入院した。祖父母の命日ということを除けば、そうそう気になる状況ではなかった。誰もが2〜3日の入院程度で退院してくるものと思っていたのである。

 しかし、様々な経緯を経て手術ということになる。誰もがその時は不安もピークに達していた。だがそれを放置するわけにも行かず、渋々の選択をするしかなかった。この辺の経緯については割愛するが、手術を終えて一週間ほどした頃、幾分容態も良い方へ向いたと連絡が入った。

 だが、私の不安は一向に消えることなく、禁じ手の占断と相成った。

 

 得卦は坤為地(こんいち)の五爻変で水地比へ之くというものである。卦図は下のようになる。

上爻━━   ━━     ━━   ━━

五爻━━   ━━ ● ⇒ ━━━━━━━

四爻━━   ━━     ━━   ━━

三爻━━   ━━     ━━   ━━

二爻━━   ━━     ━━   ━━

初爻━━   ━━     ━━   ━━

     地            比


 立噬した時、叔父は既に麻酔で眠らせられっぱなしという状況であった。当然意識もなく、身動一つ出来ない状況である。それが得卦にも現れていた。坤為地は全陰の卦であるから、無、動きが無い状態を示している。陰の極の卦だ。

 五爻は胸の位置を示しているので、近いうちに変化が現れると解った。ちなみに普通なら坤為地の五爻は大吉とされる卦である。

 しかし之卦は水地比で地(坤)が水(坎)に変わっている。水地比は水を満々と蓄えた田んぼという意味である。だから14日後に変化が現れると見たが、それは恐らく肺炎か肺水腫だろうと読んだ。そして27日後に逝去だと。。。

 結果は残念ながら易神の予告通りになってしまった。

 

 病状が好転し始めたと連絡を受け、皆がほっと胸をなでおろしても、私の気持ちは一向に上向かなかった。もちろん、私の占噬が間違っている事も十分にあったのだが。。。

 水地比という卦は帰魂卦という種類に入る卦である。文字通り魂が天に帰る卦という意味で、病人を占じてこの気を得るのはもとより宜しくない。それ以外のことであれば、坤為地も水地比も吉に部類する卦であるのだが。。。

 予想した当日、私は出勤すると、早々に従業員に指示を出し連絡を待った。程なくして一本の電話が鳴り、即座に叔父宅へと向かうことになる。

 

 占い(特に易)に関心がある人なら、どの様にして応期を出したか気になるところかもしれない。だが前述したように、この手の占事は禁じ手なので、ここに詳細を書くことは出来ない。

 みなが一喜一憂しながらも回復を祈り病状の僅かな好転に喜ぶ様を、この得卦を心の内に秘めて語れず、一人静かに見守る辛さは、私に罪悪感しか感じさせなかった。

 占者は時折り、人の見ぬ未来を垣間見るが、それが如何ほどの重大事なのだろうかと今でも思案する。占じても変え得ぬ未来を見るなら知らぬ方が良いこともある。いな、むしろ知らぬことがどれだけ人を苦しみから救うだろうと。。。

 いくら思案しても答えは出ぬが、それが禁じ手を破った私への易神の諌めなのかもしれないと重々思う。

 

2006/10/21 22:07|卜術房:易TB:0CM:8
 

潜在意識による願望実現は可能かNo13 

 スピリチュアル系の思想を説明する時によく引き合いに出されるのが、デビット・ボームの明在系と暗在系という概念である。

 明在系というのは観察できる世界、私達の世界であるが、暗在系は目に見えない世界とされる。明在系の世界は暗在系の世界に支えられており、暗在系の世界から顕在化した世界が明在系ということになる。

 

 ところで先年、世界中の話題をさらったAIBO君。彼の開発者に天外伺朗という方がいる。もちろんこの名前はペンネームであるが、科学者でありながら瞑想や心霊世界にも造詣の深いお方である。

 氏が前述のボーム理論を解り易く説明しておられたので、簡潔に引用してみたい。

 

 最近はテレビも各家庭に何台もあるという時代になった。そのテレビやラジオ、無線などは御存知のように電波を感知する事で、私たちが見たり聞いたり出来る情報になる。

 その電波は地球の空間を埋め尽くしているが、私たちは電波そのものを見たり聞いたりすることは出来ない。これがボームの暗在系に相当する。この、世界に充満する電波という情報を形にするためにはテレビとか、ラジオ、無線機や携帯電話などが必要だ。これらの機械は空間に充満している様々な種類の電波から特定の周波数を取り出して、私達の目に見え、耳に聞こえる形にしてくれる。

 だからTVに映っている番組は、目に見えない電波に支えられているわけだ。もし、それが無ければ、どんなに高性能なテレビも番組を映し出すことは出来ないわけである。ボームは宇宙がこのような仕組みになっているという仮説を立てている。

 実はこの考え方は、スピリチュアルの世界では古くから知られた考え方でもある。日本では霊主体従といって、霊的なもの、精神的なものが体(形・五感)の世界に先行していると考えられてきたし、西欧ではプラトンのイデア論などが有名だろう。

 

 空間はあらゆる電波で満ちている。その電波は世界中のあらゆるテレビ番組のチャンネル、ラジオ番組のチャンネル、そして全ての人が携帯や無線で会話している内容が、電波として飛び交っているわけだ。

 それだけの無限の情報が飛び交っているのに、見たい番組だけが映し出されるのは、TVがその番組の電波に周波数を合わせているからに他ならない。この仕組みを同調の原理とか共鳴の原理というのは御存知だろう。

 つまり周波数を合わせることで特定の番組だけを取り出しているわけだが、この仕組みは願望実現のシステムや、あらゆる霊現象などを説明できるものだ。

 

 例えば、私達の人生に起こる、あらゆる人のあらゆる出来事は、目に見えない世界に(暗在系)に全て存在していると考えることが出来るだろう。過去の出来事も、未来の出来事も全ては既にそこにある。

 しかし私たちは「今」という瞬間の出来事しか体験することが出来ない。この理由は私たちがテレビに相当するからだ。つまり、あらゆる出来事の中から、今の自分に合った波長の出来事を引き出しているということだ。

 だからもし、私たちが心の波長を、引き出したい出来事にフォーカスすることが出来れば、その瞬間に全く別な体験がやってくることになるだろう。これは昔流行った平行宇宙、パラレルワールドの説明にもなるのではないだろうか。。。

 

 心の波長をどの様にフォーカスするかは、残念ながらうまく言葉で説明できない。心の焦点を合わせるとしか言いようが無いが、その手法は、これまで書いてきた願望実現のテクニックや瞑想法がヒントとなってくれるだろう。

 しかし、このフォーカッシングをするためには、私たちが、心の深い部分で感じている「本心」に気付く必要がある。まず、この本心がどんなものかを知らないと、別なものにフォーカスすることは難しいのではないかと思うのだ。

 

 このことは、既に書いたように願望実現にのみ限定されるものではない。スピリチュアル系のあらゆる分野に応用できる、きわめて基本的なものだと思う。

 具体的に説明できないのがとても残念だが、実際に試されれば、感覚的に納得頂けるものと確信している。是非御記憶に留め置いて頂きたい概念である。

 

 

2006/10/12 22:32|心象房:願望実現TB:0CM:2
 

学問は開運の礎 

 今回の安倍政権は教育に主眼を置いた教育再生内閣を明言している。早速教育再生会議が発足したようであるが、日本の教育政策は現在まで成功したというイメージが私には殆んど無い。

 学問は国の礎であるから、氏の政策が成功することを祈りたい。

 

 ところで東洋占術では開運するために大切な要素が五つあるといわれる。それは、

一、命  二、運  三、相  四、徳  五、学

 とされている。少し解説すると、

 

一、命

 命とは先天運のことで、持って生まれた宿命のこと。

 

二、運

 運とは後天運のことで、運命学では大運という十年後との運気のことを主に言う。その外に流年運といわれる一年後との運気とか、毎月の運などがこれに入る。

 先天運が多少悪くても、後天運が良ければ出世、富貴を得るといわれる。

 

三、相

 この相は主に風水のこと。日本では家相的な風水ばかりが取りざたされるが、風水の一は地理風水で出身地の地相?が大事。次に陽宅風水。陰宅風水がある。

 陽宅風水は家相の事で、陰宅風水は墓相のことだ。ただし日本で知られているものとはかなり違う。

 命、運、と悪くても、風水が調っていれば、まあ何とか乗り切れるとされる。占術上風水ばかりが相ではないが、人相、手相、名相なども不変ではないが、なかなか変えるのは難しい。

 また、この相は相応の相と取る事も出来る。この相とは、先天運に見合った諸相を取ることで開運するもので、その最たるものが風水ということになる。

 

四、徳

 徳は陰徳、積徳のことで、1.2は生まれた時点で決まってしまうので後から変える事は出来ず、3の風水にしても一度家を立ててしまえば、そうそう大きく改善することは出来ないだろう。

 この4番の積徳からは私達の意思次第で改善できる要素になってゆく。では占術で徳とは何かというと、儒家や道家の思想から説明できる。東洋占術の基本は五行にあるが、それを特に例えると、

木=仁慈・仁愛 火=礼節 土=信頼・信用 金=正義・義理 水=智恵

 このことで儒家ならば仁・礼・信・義・智に孝・悌・忠と続くだろう。

 もし道家なら天道となる。天道とは大自然の摂理に従うのが徳であると考えても良いだろう。

 この五つの徳を占術では五徳といい「仁」を最も重視する。仁とは思いやりの心で、孟子は「惻隠の心」は仁の始まりだと説いた。「惻隠の心」とは「可哀想だと思う心」のことである。

 つまり仁愛があれば、相手を尊重する心から「礼節」が生まれ、礼を保てば「信頼」を受け、信頼を維持するところに正義が生じ、正義を貫くために智恵が生じる。そして、知ることによって更に仁愛に至るのである。

 この徳を積むことが、人の力の及ぶ開運の第一だと教えている。

 

五、学

 最後の「学」は学問の学である。中国では学は書を読むこととした。しかしここでは広く「学ぶこと」としたい。学ぼうという志があれば、私たちはどの様なところにも学びの縁(よすが)を見出すことが出来る。

【向上しようという意欲が大切なのであり、そのような意欲のある人間の目は輝いている。ゆえに「まなび」(「まな」は眼(まなこ)の「まな」であり、「び」は美もしくは火)は燃えるような瞳、美しい瞳をもつこと。。。こじ付けです(笑)】

 この努力の姿勢こそ開運の第二になるわけだ。

 

 その「学」に安倍首相はメスを入れようとしている。今後の日本を占う大切な改革がなされようとしているわけだ。学問は国家の100年(長期的な)の計なのであるから、目先に拘らず行ってもらいたいと節に願うものである。

 

2006/10/10 21:21|開運についてTB:1CM:2
 

2006年10月節入り 

 明日19:21頃から干支暦の10月六白戊戌月が始まります。月盤は以下のようになります。

2006年10月盤

                         
 ┌─┬対┬─┐
 破5│1│3│
 ├─┼─┼─┤
 合4│6│8│
 ├─┼─┼─┤
 │9│2│7戌
 └─┴─┴─暗
                        
 四禄に支合が付き七赤が暗剣殺で月建が付いています。四禄は風を表し、七赤は河川などを象徴します。水害を示す一白は定位対冲ですが、風害や河川の氾濫などが起き易い時期です。

 節入り直前に豪雨が来たのもそれと関係しているのでしょうか?

 五黄に月破が掛かっているのも気になります。最も年盤で五黄に星は着いていないので、極端な惨事には至らないでしょうが、注意するに越したことは無いでしょう。

 

 六白中宮となる今月は政治関係で問題の生じる月ですが、早速北朝鮮の核実験報道が為されています。安倍首相の運気はここ3年波乱運ですが、首相になっていきなり大きな問題に直面することになりました。

 首相の姓名単数は2で、今年は歳破、今月は坎宮に入って八白土星に同会していますが、年盤から見ると巽宮にあって五黄歳破に乗となっています。五黄は核兵器とかテロ、犯罪を示していますので、奇しくも節入りする明日にその問題に直面することになりました。

 本命星一白は離宮に入って七赤同会。即断即決が求められる時期ですが、そのための情報が不足しやすい時期。安倍首相は一白午の年に生まれておられますので、六白が暗剣殺になると同時に歳破が付いています。その六白が中宮に来る時は注意が必要です。判断を誤らないように祈ります。

 

 もし予告どおり北朝鮮が核実験を強行することになると、五黄歳破となっている関係から、この問題は長引くことになりそうです。また、北朝鮮の立場は随分とまずいことになるのは明白。自ら墓穴を掘るのは仕方がないとしても、それが関係各国に与える影響は甚大です。

 六白金星は大きいとか、動いて止まずという意味がありますので、今月に起こった事件は将来にわたって拡大しやすくなります。

 また、北朝鮮の建国年が六白年ですので、今月は北朝鮮に振り回されるのも致し方ないのでしょうか?

 金正日の本命星は九紫火星ですが、明日は九紫庚午の日なので五黄も日破となっています。

 本命星が中宮に来た時の決断や行動は、経験的に後になって忌むことが多いのですが、このあたりもどうなるか。。。予断を許さないところです。

 

 金正日の姓名総格は17画ですので単数8となり、2004年からの20年大運で中宮に来ています。本命星や姓名単数などが中宮に来ると、前半は良くても後半に急降下しやすい傾向があります。従って後半は2014年頃からということになりますが、その布石は既に出ているはず。こういう決断の一つ一つが後になって自らの首を絞めることになるのでは。。。と思われます。

 北朝鮮の動きは私たち日本も十分に注意しなければなりません。

 

 

2006/10/07 23:26|卜術房:気学TB:0CM:4
 

あなたはあなたのままでいいpart2 

 昨日は随分と抽象的なことを、さもさもに書きすぎたかな。。。と思いましたので。もうちょっと具体的に^^;

 

「あなたはこういう人だね」と言われた時、あなたはどう思うだろう?

 私は、それが良い評価でも、悪い評価でも、その人の一部かもしれないが、全てではないといつも思う。私の中にある様々な考えや思い、それら全てを秤にかけて出てきた言葉なら、とてもありがたい。でも、どんなに親しい人であろうと、相手の全てを知る人はいないのだから、どの様な評価も片手落ちなのは確かだ。

「男子たるもの、三日会わずんば、刮目して相まみえよ」

 誰だったか忘れたが、こんなことをいった偉人がいる。男子というより、人というものは三日も会わなければ、すっかりと変わっていることがある。だから、そのような時は先入観を持たずに、しっかりと目を見開いて会いなさい。という意味だ。

 

 ところが親しく、身近な人であるほど、この格言からはずっと遠いところにいるのが人の常だ。

 人の心は一つに繋がっているから、誰かが良きにつけ悪しきにつけ、このような先入観を持っていると、相手は無意識のうちにそのような人間にならなければならないと反応し始める。。。無意識に。。。

 

 また、人の心を観察してゆくと、私達の間には「期待の法則」が存在していると思えてならなくなる。それは「あなたはこういう人だね」という期待に、人は無意識に応えようと行動し始めるというものだ。

 厄介なのは評価する方もされる方も、そのようなことは知らないから、全く無頓着にやってしまうことだ。しかし、この呪縛はかなり強力なものなのである。

 意識的に排除しようとしても、余程の精神力がない限り、その呪縛から逃れるのは難しい。

 

 こうなると、人の性格というものは、本人が作り上げているものか、それとも周囲の人が作り上げているものか全くわからなくなる。

 もちろん、誰かが「あいつはこういう奴だ」と思うには、それ相応の理由や原因があったに違いない。しかし、問題なのは誰も「刮目してまみえよ」としないことだ。

 何年も、ひどい時には何十年も前の評価(先入観)をずっと継続している事だってある。

 

 きっと、お前はこういうところがあるから、もっと頑張れよ。。。みたいな気持ちで言ったことであったとしても、その先入観を持ち続ける以上、評価した側の呪縛が、その人が変わろうとすることを妨げることになる。だから、本末転倒なのだが、そのようなことを知る由もない。

 まして、その評価は十中八九正確ではない。評価する側の気分、主観、願望、期待が入り混じっているし、上にも書いたように、全てを見て言うことは不可能だからだ。

 だから本当なら相手を評価する時、少なくとも私たちは先入観を排除して観なければならないのだが、先入観を排除するということ自体、そうそう簡単なことではない。そもそも、自分がどの様な先入観を持っているかすら、殆んどの人はわかっていないだろう。解っているなら、それは先入観になりえないのだから。

 

 だから、このような評価というものは、実は評価などではなく相手を「裁く」行為に他ならない。なぜならその評価はいつも「だから、良い・悪い」という思考と一つだから。だから「あなたは、こんな人だね」の後には必ず「だから、お前はいい奴だ」、「だからお前は駄目なんだ」と言葉にならない言葉がつく。

 人は常に、このようにして相手を裁いている。裁いているといえば、いや、俺はそんなことはしていないと誰もが言うだろう。しかし、やっていることは現実に「裁き」なのである。

「人を裁くこと無かれ、裁かれんがためなり」

 とは聖書にある言葉であるが、この意味を理解している人は何人いるだろう?

 

 さて、評価とは常にこのような危険を含んでいる。評価を「する」ということは、その「する」主体がいなければならない。その主体とは「自分」以外の何者でもないと知るべきだ。だから、どの様な評価も「評価する人」にとっては・・・ということなのだ。

 それならば、どの様な評価も評価される側には全く無縁なことなのであるが、私たちは一つであるがゆえに呪縛となってしまう。。。

 だから、このような時、私はこういう「あなたが、私をそのように見ている人だということはわかりました。。。」

 あとは、この評価を受け入れるかどうかを自分で決めればよい。評価に対する防衛方法はそれぐらいしかないのだ。

 

 人の評価とはこのようなものだと私は思うが、では、あなたは自分自身をどの様に評価しているだろうか?

 まさにそれが一番大切なことなのだが、その評価をよくよく吟味して欲しい。あなたが自分に対して持っている評価は、いつか誰かに言われた評価ではないだろうか?

 もし、そう思うなら、それこそが呪縛なのである。

 

 そのことに気が付いたとき、あなたは、人の言葉で自分を評価することを止めて、自分の言葉で自分を評価し始めなければいけない。それをし始めなければ、あなたはいつまでたっても自分を、自分の手に取り戻すことは出来ないだろう。

 人の言葉(評価)によって自分を評価してきたあなたは、今まで何処にも存在することが出来なかった。あなたは何処にもいなかったのだから、これほど苦しいことは無いだろう。あなたは自分の人生を生きることが出来ず、自分を隠しておかなければならなかったのだから。

 だから、これからは今、此処に、存在する為に、自分で、自分の言葉で、自分を評価してあげよう。

 それは新しいあなたの誕生であり、今までとは全く違ったあなたの誕生になる。そうやって、あなたは本当に存在することができ、自分を取り戻し、自分の人生を取り戻すのだ。

 

 あなたが、あなたの足で自分を立たせたとき、それが本当のあなたであり、人がそのようにして立つ時、どんな人も特別で素晴らしい存在になる。

 雪の結晶が全て違うように、あなたと同じ人は誰もいなくなる。誰もあなたと比べられないのだから、あなたはあなたのままでいいのだ。

 そうなった時、そうしようと決めた時、あなたはこの宇宙で唯一の存在だ。それ以上に素晴らしいあなたはいるだろうか?

 そうなった時、そうしようと決めた時、あなたがどんなに苦しもうと、悩もうと、あなたは美しい。あなたはあなたのままでいい。

 

2006/10/06 21:05|山術房:心行TB:0CM:5
 

あなたはあなたのままでいい 

 いつの頃からか、私たちはエゴを不幸の原因と考えるようになって久しい。特に精神主義に傾倒する人々の多くは、エゴを自分の敵対するものとして認知し、エゴを滅することを究極の目標に捉えてきたように思う。

 エゴの発する欲望や思いのままにならない感情は、しばしば私たち自身を苦悩の淵に追いやって来たし、実際、それらに起因する様々な悲しむべき出来事が私達の世界を覆ってきたのだから。。。

 だが、はたしてエゴは私達の敵対者なのだろうか?

 そしてまた、自分自身を敵と見做す事が正しい道なのだろうか?

 そもそも、自分の思い通りにならないという時、その「自分」とは一体何者なのだろうか?

 もし、私たちが頭蓋骨の中にすっぽりと納まっているしわくちゃな物体だとしたら、何処にその「自分」が出てくる隙があるのだろうか?

 

 おそらく、自分の心に関心を持つ人が、一度は思う疑問に違いない。

 しかし、常に問いと答えは裏表である。思い通りにならない「自分」と、思い通りにならないと思っている「自分」の中にその答えはあるような気がしてならない。言葉通りなら、そこには少なくとも二人の「自分」が存在していることになる。

 思い通りにならない自分と、それを客観的に見つめる自分と言い換えても良いだろう。前者を私たちは自我(エゴ)という。それなら客観的に見つめる「自分」とは何者だろう?

 私たちが通常自分という時、それはエゴとしての自分を指している。では、もう一人の自分は?

 

 私(エゴ)が悩み苦しんでいる時も、もう一人の自分はいつも平安の中にいる。それはしばしば見失われ、時には自分の中からいなくなったと思うときもある。それでも、常にそこにいて「私」を見つめている。

 エゴは多くの時間をかけて、その自分を見出してきた。エゴは成長しつつ今に至るが、それは過去に在り、今も在り、これからも在るだろう。

 それは、何処にでも在る中心で、宇宙の至る所に偏在している中心だ。私達の最も深いところにある「私」であり、増えもせず減りもしない。気付くことも無く、忘れることも無い。得ることも無く、失うことも無い。それは私であり、あなたであり、それ以外のものだ。

 

 「それ」が私達の中にあるなら、私たちは何を為す事があるだろう。「それ」は私たちが何を為し、何を為さず、またどちらでもないことも知っている。

 そこには全てがあり、全てがあるゆえに何も無い。。。

 それは、全てを知っているゆえに何ものも知らない。。。

 全てを知っていて何ものも知らない時、人はどうするだろうか?

 全てを持っているゆえに何も待たない時、人はどうするだろうか?

 全ての思いであるがゆえに何も思わないとき、人はどうするだろうか?

 全ての人であるがゆえに誰も存在しない時、人はどうするだろうか?

 過去であり、今であり、未来であるがゆえに時が無い時、人はどうするだろうか?

 

 そんな流れのほんの一点に「今」私(達)がいる。

 私達は、何も持っていないゆえに、持ちたいと思う。

 私達は、何も知らないがゆえに、知りたいと思う。

 私達は、今であるがゆえに、過去に思いをはせ、未来に思いをつなぐ。

 私達は、別々だから、人を望み、一つになりたいと思い、別々だから敵対(警戒)しなければならないと思う。

 

 とても不思議な思いがするが、そう思いを馳せる時、あなたはあなたのままでよく、私は私のままでいい。それでも、数多ある出来事が私達を通り過ぎる。通り過ぎるままに、通り過ぎさせれば、それはもう一人の「自分」に通じ、通り過ぎさせなければ「私達」のものになる。

 どちらが良いだろう?どちらでも良い。なぜなら、それはどちらも「私」のものだから。

 

。。。久しぶりに、抽象的な言葉の羅列。。。たまにはこんな記事を書いてみたかった^^;

 

2006/10/05 20:29|山術房:心行TB:0CM:3
 
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