久しぶりにこのテーマに戻って来たような気がする。このシリーズも随分と長くなってきたので、そろそろまとめてみたいと思うのだが、私が思うところは全て書いたのだろうかと考えると、はなはだ心許ない。元々人の心、それも潜在意識などという大それたテーマを扱っているのだから、浅学の身にとっては難しいことこの上ない。
それでも、何処まで続くのかは解らないが、今回のテーマは意識の構造を独断と偏見で考察してみようと思う。
潜在意識というとユングの専売特許のように思われている。そのユングによると人間の意識は三つの領域に分かれているという。それは意識、個人的無意識、集合的無意識である。
仏教の意識論はもう少し詳細だ。まず五識と呼ばれるものがあり、これは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つでいわゆる五感のことである。五感に意識があると言えば、大概の人は違和感を覚えるに違いない。しかし五感から生じる認識だと書けば少しはイメージが湧くだろうか?
例えば目の前にりんご味のオレンジジュースがあるとしよう。見た目は明らかにオレンジジュースにしか見えない。そこで眼識は「ああ、オレンジジュースだ」と認識する。大好きなオレンジジュースをスーと飲み干してみると、なんとまったくりんごの味である。あなたの味覚は「なんだりんごジュースじゃないか」と認識する。
この眼識と舌識の認識は食い違うことになるが、あなたはどちらが正しいと思うだろうか?
不思議に思ったあなたは匂いをかいでみる。すると今度はレモンの香りがするでは無いか。あなたの鼻識は「何を言うか、これはレモンじゃないか」と認識する。
あなたはますます混乱するが、果たしてどの認識が正しいのだろう?
(たわいのない喩えと思われるだろうが、このような認識の葛藤は常に起こりうることだし、またその様な葛藤の上に私達の認識が成立しているのは事実だ)
眼識は見た目以上のことは認識できないし、舌識は味わった味以上のことは認識できない。また鼻識も自分が嗅いだ匂い以上のことは解らない。だから、この三つの意識の判断はどれも正しいのだが、それぞれ他の認識と食い違い葛藤が生じる。
これが五感から生じる認識であるが、なかなかそれを意識することは無いだろう。ところで、ここにはもう一つの認識が働いている。それが普通に私達が言う「意識」である。きっと意識は「これは、きっとどこか新製品に違いない」と判断するだろう。そして「これは面白い商品だ」とか。。。「大好きなオレンジジュースだと思ったのに嫌いなりんごジュースを飲ませやがって!」と、更なる判断があなたを駆け巡る。
この意識は仏教では六識と呼ばれる。私達が自我と呼んでいるものだ。この自我意識は自分を納得させるために五識から来た認識を統合し、納得できる理屈をくっつける性格がある。よく、怖い怖いと思う気持ちが柳の木すら幽霊に見えるというあれと同じ理屈なのだが。。。
ところでもし、他の感覚器官に解らないように、あなたの眼にオレンジ色を見せ、りんごジュースを飲ませ、レモンを嗅がせたら、やっぱり意識は同じ判断をするだろう。それでも、前述の意識の判断は正しいといえるだろうか?
このように考えてみると、私達の認識はまったくバラバラに働いており、それ故に意識の判断は信頼できない可能性があることに気が付く。もっとも、上のような特殊な状況は、そうあるものでは無いだろう。しかし、日常の中でこのような状況がまったく無いとも言い切れない。
のっけから話が脇道にそれてしまったが、五感も意識と見る仏教の考え方が御理解頂ければ幸いだ。
さて、この六識の上に仏教では末那識という第七識を想定している。この意識では第六識までの認識を使って自他の区別をしている意識といえるだろう。通常私達が潜在意識とか無意識という場合、この第七識を示している。
だから、潜在意識を使った願望実現という場合、第一のハードルはまだエゴの中にある。従って願望実現法を実践してまず変わるのは自分自身だ。自分の認識に変化が現れるのである。だから多分、最初はなんとなく良くなった気がする。何かが変わった気がするという感じから出発することになる。
自分が変われば、周囲の対応も変わるから、願望実現を始めて真っ先に変わって行くのは対人関係だろう。何処が変わったのかはよく分からないけれど、周囲の人達と何故かうまく行くようになった。。。と感じることだろう。
もし、このような印象を感じないようなら、願望実現はまだあなたに浸透していないと思ってよい。
次の意識、第八識を仏教では阿頼耶識という。これは無我の境地に至った時に出てくる意識といわれる。ユングの言う個人的無意識と集合的無意識の中間地点といえばよいのだろうか。。。
もし末那識を、私達が生まれてから今日までの全記憶だとすれば、阿頼耶識はあなたの過去世をも含む記憶の宝庫である。実際に仏教では阿頼耶識をカルマの宿るところと考えているようだ。だからもし、あなたが願望実現の手法によって阿頼耶識にアクセスすることが出来たなら、あなたの運命は劇的に変わるだろう。
「学問は開運の礎」に書いた宿命が変わるのであるから劇的な変化というしかない。カルマの修正ができる訳だから、正直何が起こるかなんて私にも解らない。しかし、マーフィーが書いているような、あらゆることがうまく行く状態には最低でもなっているはずだと思う。
病気の治癒(病気はカルマ的な原因がある考えられている)、あなたの行動の劇的な変化、つまり思考や認識そのものが変わるだろうことは推測が付く。
さて、これで終わりかというと、実はもう一段上がある。それは阿摩羅識と呼ばれている意識のことである。阿頼耶識ではカルマが修正できる地点だと書いたが、裏を返せばカルマのある世界なので、阿頼耶識といってもエゴの範囲を超えるものではない。(私的な解釈かもしれないけれど^^;)
しかし、この阿摩羅識では一切のカルマが浄化されている意識世界であるから自他の区別は無くなる。つまり集合的な無意識の世界ということになるだろう。もし、私達の努力がこの意識の領域に踏み込んだなら、私達の願望実現は自分という枠を超えて共時的な現象を意図的に起こせるようになるのではないかと想像する。
マーフィーはもっとも深い願望実現の状態では世界が味方すると言っているが、まさにそれを意図的に起こせるはずだと思うのだ。
だが、この意識世界では既に自他の区別は無い。ということは自分の為に行う願望実現は決してこの領域に踏み込むことは出来ないだろう。実はこの事が願望実現最大のジレンマなのだ。
普通、願望とはどんな理由をつけたとしても、きわめて主観的で利己的な望みであることを免れない。思いっきり自我の世界観の中にはまっている訳だから、その望みを持つ限り到達できない世界なのである。あなたはどちらを選ぶだろう?
このようにして見てゆくと、巷で流布されている願望実現が、そう簡単なことでは無いことが解る。しかし、嘆息するほど困難な世界かというとそうでも無い。無為の努力は必要だが「忘れて頃に叶う」「何気なく思ったことが現実になった」という多数の証言の中にヒントがあるだろう。無為の作為、無欲の大欲といわれるそれである。
願望実現最大のジレンマに思いを馳せるなら、少しは見えてくるかもしれないと思いもするが、意図的にその世界に入ろうとするなら勿論そう簡単なことで無いのは確かだろう。。。
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