古来から多くの先賢たちは「人間」というテーマに取り組んできた。現在では宗教として扱われていいるそれらや多くの哲学はこのテーマに多大な時間と人知の限りを尽くしてきたと言える。
私たちが生きてゆくうえで自分を知る事が大切であるように、人が至福に至るために人間そのものを知る必要があったのだろう。
これらのテーマは現代において諸科学や哲学等にその道を譲ったかに思われるが、長い年月をかけて構築されてきた古来の叡智は視点こそ違えども、決して現代の科学・哲学に劣るものではないと思う。
そうした中で卓越した感性によって、先賢たちは人間自身を探求するために知恵を残してきたが、その中に人間の構造を大きく三つに分類するものがある。それを一般には三分説というが、私見を織り交ぜて考察してみたい。
まず私達は肉体、魂、霊の三つからなると仮定されている。ところがややこしい事に、魂とか霊とかいっても、その意味合いは明確ではなく、知恵の出所によっては意味が逆転している場合すらある。また心理学などで用いられる定義と相まって非常に解り辛くなっているのが現状だろう。
そこで、時折り当ブログでも記事中でこうした用語をしばしば用いている事もあり、私見としてそれらが何を意味しているのかをあらためて定義してみたい。恐らく、上記の現状によって私の定義が必ずしも適切だとは言えないだろうが、管理人がおおよそこのようなことを念頭に記述していると御理解願えれば幸いである。
まず、私達は大きく霊、魂、体の三つによって構成されていると言われている。この「体」の中に自我が入る場合もあれば、魂の中に「自我」を入れている場合も見受けられる。
自我に関する問題は私たちに直接関係していることであるから、今回は四分説的な立場をとって『体・自我・魂・霊』として考えてみたいと思う。
「体」に対しては説明の必要はないだろうから、まず、自我について書いてみたい。
私達の自我は一般に知性、感情、本能(欲求)、あるいは意志によって成立しているとされている。秘教的な教えでは自我には意志がないとするものも多いのではないかと思うが、恐らく多くの人はこの時点でまず疑問を抱く事になるだろう。
他の三つに対しては同意できたとしても、意志がないと言う見解は私達の実感からは遠く離れているという印象を持たれるに違いない。しかし、このことを書くと非常に長くなるので、この点はいずれ別に記述してみたいと思う。
さて、私達の自我は、上記の三つ「知性・感情・本能」からなっていると考えられているが、この三つのいずれに重点が置かれているかは当然個人差がある。しかし、自我の完成はこの三つを等しく進化させることであり、この三つのバランスを保つ事なのであると思う。その三つの調和的な発展は「理性」の出現によって測る事ができる。
知識、知性、理性はとても混同されやすい関係にあるが、私見にて分類してみると知識は言ってみれば記憶そのものであるということも出来よう。知識自体は学びや体験によって増えてゆくが、それが知性と直結しないのは、持っている知識を如何に応用できるかにかかっている。
過去の体験や学んだ事を、ある問題の解決などにきちんと活かせる事が知性の多寡を測る要素になる。従ってこの場合の知性は学問的なものではない。
また、その知性は発展するに従って、私達の欲求や感情をコントロールし始めようと試みる。それが「理性」だと思ってもらえば解り易いのではないだろうか。もちろん、感情や欲求のコントロールは別な要因から発生する事もあるが、ここでは混乱を避けるために言及しない。
だから自我の三要素「知性、感情、本能」は理性の出現を待ってコントロールされ始め、また完成されてゆくことになる。
以上の様な事から、厳しい言い方をすれば私達の多くは未だに自我を完成させておらず、それ故に暴走する自我に翻弄されてしばしば困難や不幸を生み出す結果を招いていると言えるだろう。
神秘学的な考えでは、自我の三要素にはそれぞれ固有の身体が与えられている。それは本能や欲求を司るエーテル体、感情を司るアストラル体、知性を司るメンタル体とされ、その霊的な身体が肉体に折り重なるようにして存在して自我を形成していると考えるわけである。
これらの三つの身体はそれぞれに折り重なりながらも独立して存在しているために、それぞれに自己の主張を繰り返している。それ故に考える事と感じる事、行動する事はまったくちぐはぐなものとなりえる。
例えば、誰かに相談をされた時に、私達はすぐさま問題の本質を掴んでアドバイスを提供できるのに、いざ自分の事となると解っていても延々と悩む事が多いのも、このことに起因する。
というのは誰かにアドバイスする時は純粋にメンタル体が活動しているけれども、自分の事となると感情や欲求が絡んでくるからである。
ところで自我は本当の「私」の反映である。それは合わせ鏡のように出来ており、本当の私にも三つの要素がある。これを私は「魂」と呼んでいる。
魂は叡智、慈愛、意志の三つを要素として持っている。これはそれぞれ、コーザル体(叡智)、慈愛(ブッディー体)、意志(アートマー体)と呼ばれている。
お気づきになると思うが、この反映を纏めると次のようになる。
自我の三つ組み 魂の三つ組み
知性:メンタル体 ⇒ 叡智:コーザル体
感情:アストラル体 ⇒ 慈愛:ブッディー体
本能:エーテル体 ⇒ 意志:アートマー体
(この魂の事を自我という言葉に対比して「真我」と呼ばれることがある。)
私達の自我の三要素が、調和的に完成されたとき、初めて私達は自我を持つ事になる。つまり現在、私達は不完全な状態の自我しか持っていない。けれども、その自我が完成されたとき、その自我は魂(真我)との連結子としての役目を果たす事になる。
この時、私達は自分が何者であるかを知る事になるだろう。
さて、では「霊」とは何であろうかとなる。巷の心霊特集に出てくる「霊」はいわゆる幽霊などの意味合い程度でしか認識されていないが、こうした秘教的な意味で使われる場合「霊」は最も崇高な私達の根源である。
自我が魂の写しであるように、魂は更に崇高な精神の写しであり、究極的な意味では、それがまさに本当の私たちだということも出来る。
お釈迦様は私達の中には仏性が宿っているといったし、奇しくもヒトラーは「我々は発展途上の神である」といったが、まさにその「神」の性質を私達は最も中心に宿しており、それを此処では「霊」と称して用いている。
「霊」の三要素は「神・善・美」であり、コーザル体(叡智)は善を反映し、ブッディー体(慈愛)は美を反映している。残りのアートマーは「真」の反映である。
つまり霊の三位一体は魂の三位一体として反映され、魂の三位一体は自我の三要素に反映されていると考えられる。
私達が自我の三要素を調和的に完成させるなら、自我は私たちを本当の自分「魂」に繋げる事になるだろう。私達の自我の三要素がそれぞれに自己主張していることは、簡単な喩えで説明する事ができる。
例えば昨今は気持ちの暗くなるニュースが多いが、そのニュースを聞きながら、今晩の夕食の事を考えている。感情は同情を生み出そうとしているのに、思考は夕飯の事を考えているのだ。その一方で肉体はトイレに行けと急かす。
こうした事は当たり前のことのように行われているが、実はそれこそが私達の自我が未だに完成されていない状況の反映なのである。
しかし、自我が完成された時には、そのような事はなくなり、考える事、感じる事、行動する事は一本の線で結ばれるだろう。つまり、内的な矛盾は消失し、何をするにも心の内部に葛藤が生じることはなくなる。
こうした道筋を歩いてゆくためには、自分が「今」何を考え、何を感じ、何をしようとしているのかに気が付かねばならない。それらに気が付かない限りは、調和的に統合する事は不可能だからである。
それ故に、世界は私たちにそれを気付かせようと様々な出来事を送ってくる。それは一般に「苦悩」とか「苦労」として体験される事が多い。
いずれにしても、このような構造が私達の内部にあり、それを統一して自我の完成を見ることが今の私達の課題だと言えるだろう。
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