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趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

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Author:やわたうま
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運命論。。。無意識的決定 

 私が中学生の頃、ふとしたことからUFOのような発光物体を見たことがあります。その事を弟に話すと、当時小学生だった弟は自分も見たいと言いはじめました。弟にせがまれた私は、いたずら心も手伝ってある妙案を思いつきます。それは弟に催眠術をかけUFOを目撃させるというものでした。

 小学生の頃にふとしたきっかけで催眠術を覚えたのですが、UFOを見せるというのは記憶支配に相当する催眠術で私にとっては高度な技法でした。自分にそれが出来るかどうかは解りませんでしたが、試してみたいという衝動もありました。

 30分ほどかけてゆっくりと深い催眠状態へと導き後催眠をかけました。これは例えば催眠を説いた後に手を叩くと暗示した特定の行動を取ったり見えたりするというものです。

 弟の催眠深度を確認しつつ、あるUFOのイメージを詳細に言って聞かせました。催眠を解き、手を叩くと弟は暑いので窓を開けにゆき、その時にタイミングよくUFOを目撃すると暗示してあります。そして手を打つと弟は予定通りUFOを目撃し満足な様子でした。

 この偽の記憶は、その後解除しました。しかし、その後も何度か弟はUFOを目撃したと時々話します。そちらの目撃談については、私は居合わせたことがないのでどの様なものかは解りませんが、時々その時の暗示が何らかの影響を及ぼしたのだろうかと考えさせられる事があります。

 

 少なくとも私がかけた暗示による目撃は偽の記憶です。しかし、それは弟の体験の一つになっています。こうした暗示の影響を観察すると、私たちがいかに無意識的な暗示によって影響されているかが良くわかります。そして、それは催眠術という特殊な状況に関わらず、日常的に発生している事だと思われます。

 それがいわゆる「思い込み」であったり「誤認識」あるいは「錯覚」であったりしますが、これらに対して私達は非常に無防備な状態で生活をしています。というのも、それらは大概私たちが無意識的な状態のときに、私達の精神に入り込むことになるからです。

 ある程度自己認識が出来上がった時期であれば、それを意識的に遠ざける事ができるかもしれません。しかし、実にこうした暗示的な出来事は私達が自己認識を発達させるより前に始まっています。つまり、少なくとも私たちが産声を上げたその瞬間から始まっているのです。

 

 この無意識に蓄積された記憶が、どれほど私たちに影響を与えているか、おそらく殆んどの人は認識していないでしょう。この手の記憶がいわゆるトラウマとか、精神性の疾患を持つ人たちにのみ起こっている事だと思っている人が多いのではないでしょうか。しかし、実際には全ての人が何らかの形で、この影響を受け、そして支配されていると言っても過言ではないでしょう。

 ある心理学者は、私達の行動は、どう甘く見積もっても90%は無意識に支配されていると言っています。無意識に蓄積された記憶は強力な強制力を持っていて、私達の思考と決断に影響を及ぼします。そのために、いかに理性的に考える事が出来たとしても、その通りに行動するのは至難な状態に至っている事も少なくありません。

 

 私達の知性は、自分の行動に対して必ず何らかの理由を付けたがります。理由のない行動を認めることに強い抵抗を感じるように出来ています。(潜在意識による願望実現は可能かNo2潜在意識による願望実現は可能かNo3、を参照して下さい)

 この理由付けが、いわゆる自己弁護(言い訳)や、自分の正当性の主張となって出てきます。しかしそれらには90%以上意味がありません。単に自分を納得させようとしているに過ぎない行為です。そして、自分が納得できれば、それがいかに矛盾に満ちていても本人は満足します。

 これは心理学とか、無意識に対する知識がなくても、注意深く観察する事で理解する事ができるでしょう。第三者には、その矛盾がはっきりとわかるはずですが、本人はそれに気がつかないでしょう。

 

 私達の思考や決断の裏で、こうした働きが行われているとしたら、私達の思考や決断が、本当に自分の思考であり、決断であるという事ができるでしょうか?

 そして、私達の無意識下でその様な動きが進行している以上、私達がどんなに理由を取り繕うとも、無意識にとってはするべき思考をし、下すべき決断を下しているに過ぎません。つまり、私たちがどのように考え、決断するかはあらかじめ決まっているといっても良いでしょう。

 その思考・決断は常に表に出ているとは限りませんが、「潜在意識による願望実現は可能かNo3」に書いたような「縁」がそろった時に発動し始め、ついには抵抗できない状態へと陥ります。その時私達は決まってこういうでしょう「こんなはずではなかった」と。

 この無意識下の仕組みがあるがために、ある人は成功すべく成功し、ある人は苦労するべくして苦労します。これが運命は決まっているというもう一つの理由です。

 

 ところで、弟に催眠術によってUFOを目撃させた時、丁度我が家には同年代の従姉妹達が遊びに来ていました。その中での実験?だったのですが、弟がUFOが見えるといった時に、周囲にいた従姉妹達が数人、自分にもUFOが見えるといい始めました。

 集団暗示の状態であったのか、それとも、何か他の要因があったのかは定かではありませんが、一つの推測として無意識下での感染があったのではないかと考えています。というのも弟に暗示をかけている時には、そこにいなかった従兄弟達もいたからです。

 もちろん集合的な無意識は、私達の心が、その深い所ではつながっていると仮説しています。しかし、実際にはもっと浅い部分でそれが始まっているのだろうとも思います。

 そして、もしそうならばですが、無意識下の目的を達成するために、誰かが協力する事は十分ありえるのではないかと思います。この事は、誰かの無意識の中に不幸の要因があったとしたら、その要因は他の誰かを巻き込む可能性があるということです。

 

 このような無意識的運命確定状態を回避するために、私達は自分自身に目を向けなければならないだろうと思います。前回書いたように、気が付いていても回避できるとは限りません。。。しかし、まずは、自分に気付いていなければ先には進めないのです。

 また、受容すること、即ち、いま自分の周りで起きていることをあれこれ考えずに受け入れる事は、私たちに気付きをもたらす大きな助けになるでしょう。なぜなら、言い訳や、正当化は、眠りを深めてしまい、無意識的な衝動を許す結果になるからです。

 私たちが自由意志へと向かうために、本当に私達は自分に気が付いていなければなりません。全てはそこから始まるのだと思います。

 

 私たちが深い眠りにある時に叩き起こされるのは、決して心地良いものではありません。むしろそれは不快を伴うものです。しかし、その不快を通り過ぎずに目覚める事はできないでしょう。もちろん自然に目覚めるまで、存分に眠っていたいというなら別ですが。。。

 不快は色々なパターンで私たちを眠りから呼び覚まそうとします。それは困難かもしれませんし、悲しみかもしれず、あるいは怒りや、憎しみかもしれません。しかし、それが訪れた時は目覚めの時が近付いたのです。

 いたずらに不快を正当化することなく、ただ気付いていて下さい。不快は目覚まし時計のようなものですから。。。

 

2007/03/30 01:30|占術全般TB:0CM:7
 

運命論。。。決定論、未定論 

 運命論を考えると、大きく三種類あることに気が付きます。

 一つは決定論。運命は全て決まっていて、自由意志の介入の余地がありません。

 もう一つは未定論で、運命は決まっていないので、自由意志が働く余地は十分にあります。

 そしてもう一つは予定論(予定論はカルヴァンの予定説が有名ですが、彼の説は神至上主義に基づいた説ですので除外します)。運命はある程度決まっているけれども、選択の余地は残されているというものです。

 

 どの説もいまだに決定的な説が出ないのは、実際の所私たちには将来何が起こるかを知りえないためです。もし、本当にわからないのなら、未来は決まっていないという事になりますし、解るのなら未来は決まっている事になるでしょう。

 しかし、占いをやっていますと未来はある程度解ります。この「ある程度」というのも曲者で、100%当たれば問題ないのでしょうが、実際には占者の技術でピンからキリまでありますし100%という事はまずありません。それで占いをやっている人の多くは予定説的な立場を取る事になります。

 宿命は「宿る命」で変えようがないが、運命は「運ぶ命」で変え得ると説くわけです。しかし思うに占術における「宿命」とは「命が宿る」という意味であり、命とは占術における誕生日のことを言います。命理と呼ぶ時の「命」の事です。誕生日は変えようがないので、変えようの無い運が宿るという意味。

 そして運命は命運で推命や紫微斗数でも算出する「大運」のことだと思われます。この大運も誕生日から算出されますので変ええるものではありません。通常大運は10年刻みで変化してゆくので、この変化のことを変え得ると誤解されているような気がします。

 従って、宿命も運命も占術的には変え得るものではありません。ただし、運命の部分を決定する干支暦は北半球と南半球では逆転するという説があります。もしこれが本当なら南半球に住むことで変え得ることになる可能性はありますが。。。

 余談が少々長くなりましたが、こう考えると占いは決定論の上に成り立っていると言って良いのではないかと思います。

 

 ところで、因果律を考えると、全ては決まっているとしか思えないと私は書きました。けれど、現代の科学は因果律が崩壊する現象を観測しています。それが素粒子論の世界で、微粒子の世界とはいえ、そこでは因果律は通用しません。

 私たちが認識できる世界は因果律に支配されていますが、私達の世界を作り出している素粒子の世界では因果律は存在しない。。。このことは非常に注目するべき事ではないかと思います。

 もし、単純に因果律の支配する目に見える世界と、素粒子の眼に見えない世界と分けるならば、この要素は当然私達の活動の中にも働いているはずです。つまり、私達は完全因果律の世界と、因果律の存在しない世界を併せ持っている事になるだろうと推測します。

 

 因果律の支配を超えた人といえば、唯一人類にはお釈迦様が存在します。それが本当なのか伝説なのかは確認のし様がありませんが仏教あるいはヒンズー教における「覚者・仏陀」とは、因果律の世界、カルマの世界から抜け出た人のことを言いますから、定義通りなら彼は因果律の世界を超えた人物という事になるでしょう。

 これまでの話の流れから御理解頂けると思いますが、運命の支配を超えて自由意志を唯一持てる状態、それが解脱し覚者となることとなります。逆に、その境地を得ていない私達は運命に支配されている存在だという事になります。

 仏陀は色界(目に見える世界・現実)を超えて無色界(目に見えない世界・素粒子世界?)に存在しているという事になるでしょう。

 従って、私は運命は決まっているけれども、僅かながら?運命の支配から逃れる道があると考えています。

 

 先日「四禅八定」の記事で瞑想の深さ、段階を書きました。これは瞑想のみならず日頃の私達の精神状態の段階でもあります。この階梯のどこにいるかで自由意志の発露の程度も変わってくるのであろうと思います。

 実際、これは私の主観ですが、自由意志に目覚めていない人ほど占いは良く当たる様な気がします。それが自由意志に徐々に目覚めてゆくに従って奇妙な事が起こります。出来事の螺旋的な進展が見られるのです。

 例えば、事故に逢う相が出ているとすると、内的な精神性が高そうな人は軽い事故で済み、さらに高い人は事故に遭いかけた、、、で済み、更に高い人は全く遭遇しないか、遭遇してもその後の良い影響に変換されるという具合です。

 これは自分の精神状態と比較検討しても明らかで、同じ人でもその日、その時間によって精神性は異なります。著しく気分の低下している時に、凶方位とかを使用すれば、まずは口論とか諍いが発生しますし、同じような凶方位を使っても、精神的に落ち着いていれば不快な出来事があっても、何事もなくやり過ごす事が出来ることに気が付きます。

 凶運気の時はまさに精神性が試されているといっても良いかもしれません。

 

 さて運命は決まっています。けれども、私たちが精神性を高める事によって運命の束縛から離れられる可能性はある。これが私の運命に対する考えです。

 これはどちらが良いのかという問題ではありません。どちらを指向するかという問題だと思います。そして、私たちがあらゆる体験を、存分に重ねるなら、自然と運命から離れる方向へと自然と向かうのだろうとも思います。

 運命を超えることを目指すか、存分に体験しつくす事を目指すかの問題ですから。。。でも、どちらを目指そうとも、最終的に私達はいずれ運命を超えて行く事になるのでしょう。どうやらそれだけは決まっている事のようです。

 

 

2007/03/28 11:59|占術全般TB:1CM:18
 

能登地震の背景 

 昨日の能登地震の被災者の方々に心から一日も早い復興と、そして不安からの解放と回復を祈ります。。。

 先年、私が住む地域でも大きな地震が起きた事がありました。三陸遥か地震で、私は十勝沖地震と二度その規模の地震を体験しています。三陸遥か地震があったとき娘たちはまだ小学校低学年の頃で、それからしばらくの間、ちょっとした地震が来るたびにびくびくとしていたのを思い出します。

 社会人となった今では、何とか冷静に対処できるようになったようですが、それでも不安は隠せないらしく動揺していることもしばしばあります。

 この手の災害が心に残す傷は意外に大きく、特に小さなお子さん達にとっては大変な出来事なのでしょう。その様な精神的な面でも一日も早くケアされますように心から祈ります。

 こうした災害などがあると占いのテーマとして取り上げるのには心が痛み、今回も取り上げずにやり過ごそうと思っておりました。けれど当ブログに検索サイトを通して来られている方が「地震」をキーワードにしておられる方が急増しており、何がしかのヒントになるかもしれないとの望みを抱き、少しく書いておきたいと思います。

 

 まず今年の地震については「2007年立春、年次予測」で取り上げています。

 干支暦3月(3月6日より4月5日迄)は、一白水星癸卯で、九星における地震の星三碧木星が月破となっています。年盤で三碧には太歳神が付いていますので、その三碧木星が月盤で月破となるような時には地震が発生しやすいのです。このような見方については既に書いておりますので参照して頂ければ幸いです。

 そして実際、月変わりした3月6日には再再度スマトラで地震が発生いたしました。

 

 実は私はこうした予測を立てる場合、大運⇒年盤⇒月盤⇒日盤と見てゆきますが、実際に重視するのは節入り日もしくは中気の九星干支なのです。この予測法はおそらく九星気学の鑑定などを行っている各サイトを覗いてみても、言及しているサイトは全くありませんでしたので、当ブログでも明確に言及する事は避けていました。

 ですが、スマトラ地震、今回の能登地震、もしくは今月に入ってあった発砲事件、航空機事故、ロシアの炭鉱爆発事故や信越化学工場の爆発事故など、、、この九星干支に如実に暗示されています。

 

 まず、3月6日啓蟄の日の九星干支は六白己亥の日で、その日の日盤は以下のようになります。

 五─┬定┬─┐
 破5│1│3│
 ├─┼─┼─┤
 │4│6│8│
 ├─┼─┼─┤
 合9│2│7│
 └─┴─┴亥暗

 死を表す五黄土星が日破になっていて、今月は死を伴う事件事故が多発する暗示が読み取れます。中宮の六白は弾丸、大きな工場などを暗示していますし、五黄土星は航空機などの象をもつ巽宮に入っています。また定位対冲の一白はトンネルや炭鉱などの「穴」の象意を持っています。支合の九紫は「火」の象で、火災、爆発を暗示しています。

 

 今月の中気に当たる春分については「2007年3月春分」にも書いてありますが、その日は三碧甲寅の日で、しかも時刻も三碧己巳の刻と三碧が重なっています。

 今まで私は節入り時点の月盤のみを書いてきたのですが、今回あえて日時の九星干支を書いたのは、地震が懸念されたからでありました。

 地震が発生した昨日は七赤戊午の日で、その三碧が日破となっています。発生時刻は六白丁巳の刻で、同様に時盤の三碧には支合が付いておりました。

 夕方18時頃にも大きな揺り返しがありましたが、その時刻は一白辛酉の刻で、やはり三碧に時庚(時間の十二支)が付いています。

 

 干支暦を見ていると、世界でどの様なことが起こりそうなのかはおおよそ解ります。しかし、それが実際にどこで、どの程度の規模で起こるのか、、、残念ながら、現在の私ではそこまで推測する力がありません。

 以前も書きましたが、出来事が推測できても、肝心のそこが解らなければ何の対処も出来ず、どこかで事件が起こるのを指をくわえて待つしかありません。。。

 今回、公開しようと思いましたのも、関心のある方がより研鑽される事を期待して、寄与したいとの思いからです。どうか、多くの人に貢献できる形で九星気学が発展しますように。。。

 

 

2007/03/26 14:47|卜術房:気学TB:0CM:3
 

運命論。。。序? 

 運命論。。。運命は決まっていて変えようがないという考え方です。運命は既に決まっているので、なるようにしかならない。努力しても成功できない人は成功できないし、成功する人は成功する。。。だから運命論者は努力の必要がない^^;

 そして運命は決まっているのだから、自分の意志で何かをしようとしても、実はそれはあらかじめ決まっているのだから自由意志なんて存在しないのだ。。。という、多分この辺が大勢の人の反感を買っているのでしょう。

 努力しても何も変わらないとか、、、私たちには自由意志などないとか、、、その様に言われたら由々しき問題です。何しろ、殆んど全ての人は自分に自由意志があると思っているし、その事実と反していますから、どう考えても運命論は間違っているんです。

 で、結論から言うと私は運命論者です。運命は決まっているとしかいえません。こう書くと日頃私が書いている事と矛盾していると思う方もいらっしゃるでしょうが、、、結論は、もうちょっと待ってください。

 

 まず、私達の世界には因果律というれっきとした法則があります。この法則は皆さん御存じでしょうから、説明は不用でしょう。この世界で生きている以上、私たちもその法則から逃れる事はできません。例外があるとしたら、そもそも因果律は法則ではないと言うことになりますから。。。

 私たちが因果律という法則に支配されているなら、私たちが受け取る結果は全て必然です。必然以外のものは存在しえないという事になります。

 もし私たちが本当に自由で、自由意志なるものがあるのならば、私達は因果律の法則から外れていなければなりません。。。それは有り得るでしょうか?

 

 努力すれば報われる。。。それは正しいでしょう。努力は原因で、報いは結果です。でも努力しようという考えを生み出した原因はなんでしょう?

 。。。そう考えてゆくと、原因と結果の無限ループが始まります。。。けれど、どうぞ考えてみてください。結局、どこまで辿っても因果律という必然からは逃れていないはずです。なのに何故自由意志があると。。。そう思うのでしょうか?

 

 原因と結果のループをどこまでも辿ってゆくと、宇宙の始まりに至ります。宇宙卵が爆発して現在の宇宙は始まったといわれます。きっと因果律もその時に出来たのでしょう。すると、宇宙が始まった時には、宇宙の閉鎖に至るまで、全ては必然的に進行してゆくことになります。

 つまり宇宙が始まった時に、全ては決まっているといっても良いことになるのではないでしょうか?

 そこに何故自由意志を見出せるのか、私には理解できません。宇宙を支配している因果律を超えない限り、全く不可能な事なのですから。。。

 そして、そのような人が果たしているのでしょうか。。。?

 

 因果律という(あるいは他の法則でも結構ですが)から自由だというなら、その人はもはやこの宇宙には存在できないでしょう。

 それとも、法則の支配下にあると事と、自由とは相反しないのでしょうか?そもそも、自由とはなんなのでしょう?

  

 とりあえず自由意志なるものに疑問を呈して、今回は閉じたいと思います。あなたには自由意志はありますか?

 

2007/03/26 02:42|占術全般TB:0CM:6
 

言霊を気学で考える 

 今日春分の日です。春分は方位で言うと東にあたります。気学では震宮(しんきゅう)三碧木星の方位に相当します。その三碧木星は声、音を示す星なので、今日は春分からテーマを頂いて「言葉・音・言霊」に関することを少し考察してみたいと思う。

 気学の九星は易の八卦に対応していて、テーマの三碧木星は「雷卦」に当たる。 (易では━━━で陽を、━ ━で陰を表し、この一本の線を「爻」というが、一つの卦は三本の爻で表される。なお爻は下から数えてゆく)

 

 陽━━━  陰━ ━  陽━━━  陰━ ━
 陽━━━  陽━━━  陰━ ━  陰━ ━
 陽━━━  陽━━━  陽━━━  陽━━━
  天(乾)  沢(兌)  火(離)  雷(震)
 六白金星  七赤金星  九紫火星  三碧木星

 

 陽━━━  陰━ ━  陽━━━  陰━ ━
 陽━━━  陽━━━  陰━ ━  陰━ ━
 陰━ ━  陰━ ━  陰━ ━  陰━ ━
  風(巽)   水(坎) 山(艮)  地(坤)
 四禄木星  一白水星  八白土星  二黒土星

 

 さて本題の三碧木星の卦形は

陰 ━ ━
陰 ━ ━
陽 ━━━

 となって、一番下から陽が芽吹いてきている。全てが陰で出来ている地の卦から一陽が芽を出してきた状態それが「雷・三碧木星」の象意となる訳だ。全陰(地卦)は「無」を表すので、無の状態から陽(形・目に見えるもの)が現れてきたことになる。だからまさに「初めに言葉ありき」という訳なのだ。

 雷卦は文字通り電気エネルギーを示す卦で、人体における神経をも象徴している。肉体の電気的な活動は「思考」に代表されると考えると「言葉」=「思考」という等式が成立する。

 だから宇宙の森羅万象は思考によって始まり、言葉「音」として発露して行ったと易では教えていると言って良いだろう。

 

 そこで次に三碧木星の九星盤を作成してみる。

  ┌―─┬―─┬―─┐
  │ 2 │ 7 │ 9 │
  |巽宮|離宮|坤宮|
  ├─―┼─―┼─―┤
  暗 1 │ 3 │ 5 五
  |震宮|中宮|兌宮|
  ├―─┼―─┼―─┤
  │ 6 │ 8 │ 4 │
  |艮宮|坎宮|乾宮|
  └―─┴―─┴―─定

 

 最も力を持つ五黄土星が兌宮(だきゅう)に入っているが、兌宮は「口」を表す場所である。反対側の震宮(しんきゅう)には一白暗剣殺が入っているが一白は水卦の事で、一白の象徴する形は「波型」なのである。

 兌宮は沢卦のことであるから、沢に沿って流れるのが水なのと同じで、口の形にそって出てくる音の波形を表している。

 少し秘教的なことを言えば一白水星は幽冥界を表す星でもあるから、発せられた音はまず幽冥界にて身体(形)を作るということがわかる。余談になるが一白中宮の盤を作成すると六白金星(天卦)が暗剣殺になるが、天卦は全陽の卦であり、全てが現れた(目に見える形になった)という意味がある。

 つまり、思考は音(波動)となり、波動は幽冥界に「場(形)」を作ることになる、その目に見えない形が、いずれは全陽の眼に見える形になってゆくという訳である。言葉を変えれば、私達の日頃の思考は幽冥界(潜在意識)の中に累積されて形になり、いずれは現実になってゆくということになるだろう。

 

 三碧中宮盤のもう一つの特徴、定位対冲に当たっているのは四禄木星である。四禄木星は八卦で言えば「風卦」の事であり、つまりは「空気」という事になる。まさに四禄の象意は「伝える・伝わる」だから、波動の媒体という事になるだろう。

 その四禄は乾宮(けんきゅう)に入っているが、乾宮は全陽の卦、天卦の本来の場所であるから。媒体があってようやく形になったと教えている。

 

 思考が現実を作るというのは願望実現系では言い尽くされていることであるが、気学でも同じ事が読み取れるというのはとても面白い。

 ちなみに雷卦は「爆発」を意味してもいて、三碧が月破となっている今月、炭鉱やら工場やらで爆発が相次いでいるが、宇宙で最初の爆発といえばもちろんビッグバンということになるだろう。となれば、そのビッグバンは太初の思考の発露だったという事になる。

 その爆発も最終的に乾宮(天卦)で形になったわけであるが、その天卦が象徴するのは「神」であるというのも、一言付け加えておきたい。ビッグバンが神の思考の発露とするなら、宇宙は「形になった神」そのものだということが出来よう。

 天卦の意味は「動いて止まず」であるから、生々流転して止まない姿こそ、この宇宙の本質といえるのかもしれない。

 

 ところでもう一点、雷卦(三碧木星・東)の先天定位は離・火卦である。火は魂、霊、精神などを表す卦であるが、同時にビジョンあるいはイマジネーションを象徴する卦でもある。だから声・思考(三碧)はビジョンを伴ったものこそ本物であると付記して置きたい。

 オウムのように習慣的に繰り返される言葉に万象を生成する力はない。といってしまうと言い過ぎだろうか。。。

 しかし、言霊が相応の力を発揮するためにはビジョンが必要不可欠、不二のものであり、その火卦は「集中」を意味している。

 思考が一点に集中され、ビジョンを伴う時、それは形を創造する力を持つことになるだろう。もっとも雷卦は前述したように全陰の地卦から始まっている。全陰ということは空、無という事であり、心身ともにくつろいだ状態を示している。無有(むう)、無から有が生じる瞬間である。

 

2007/03/21 10:38|卜術房:気学TB:0CM:14
 

水卦・困難期の過ごし方 

 易経を紐解くと、困難な時期にも色んなパターンがあることが解る。その中でも六十四卦の中で最も困難な時期を示すとされる卦が四つあり、これを四大難卦という。

 坎為水(かんいすい)、水雷屯(ちゅん)、水山蹇(けん)、沢水困(こん)の四つで、どれも水の卦が関わっている。易では目的を達成する事を渡河に例えているケースが多いが、川を示す水の卦は目的達成への障害という取り扱いがなされているとわかる。

 

 この水卦は九星では一白水星に当たるが、一白水星が困難、貧困、病気、陥る、、、などのあまり歓迎したくない象意を持っているのも、天、沢、火、雷、風、水、山、地の八つの卦の中の水の卦に対応しているゆえである。しかし、一方で水の卦は知恵をも表していて、こうした困難の中から生み出された知恵が非常に大切である事を示唆している。

 さっそく四大難卦について簡単に説明すると。。。

 

水雷屯・・・この卦は第三卦で、陽を示す乾為天(けんいてん)と次の陰を示す坤為地(こんいち)の次に位置する卦である。「陽と陰が初めて交わり新しいものを生み出そうとする、その困難の苦しみの時」と書かれている。

 水は「困難」、雷は「活動」なので、困難を前に活発に動いてゆくという意味になる。雨雲と雷雲となれば、雷鳴ひしめく時であり、あたりは薄暗く、見通しもきかない。雷が鳴り響けば、その害が自分にも及ぶだろうかと不安にもなるが、下卦は雷の活動なので、そういう状況にあっても進み行こうという気持ちが失われるわけではない。

(易では上の卦は、環境あるいは相手を示し、下の卦は自分の状況を示している。この場合水の困難が状況で、雷の活動に向かう気持ちが自分を示している)

 

 従って、行く手は困難ばかりが連なっているように見えるが、初心を忘れずに進むならばいずれは困難を克服して伸び栄えると書かれている。『大象』には、雲(水)が垂れ込め、雷が轟いている。まだ雨となって万物を潤すには至らない。これが屯の卦象であると続いている。

 よって、この卦は何かを始めようと志した時に、誰もが遭遇するであろう困難を示す卦である。けれども初志が万物を潤すものであるなら(利己的なものでないのなら)、それを忘れずに進めば必ず道が開けて大きく伸びるとも書かれている。

 だから、このような時期の困難期には、利己心を捨ててかからなければならないと教えているわけである。

 

 

 坎為水・・・水(困難)が重なっている卦であり、状況(上卦・水)も困難ならば、自分の気持ちも落ち込んで(下卦・水)しまっている。このような状態では困難を克服する気力すらなく、それを助けてくれる人もいない。しかし、その困難を克服しようとする意志の弱さにこそ問題があるのではないかと、この卦は問いかけている。

 というのも、いかに水が溢れそうになろうとも、山を越える事はありえない、、、と、この卦辞には書かれているからである。また同じ箇所に、いかに河川が流れようとも、水は低きに流れる性質を変えることはないとある。

 

 色んな解釈が出来ようが、心が落ち込んで低く沈んでいれば、水(困難)は益々そこに流れ込んでくるのだと言っているようにも思える。人は相した困難の中でこそ心を鍛えられるものである。それで、次にはこう書かれている。

 人も危難に際して誠意を変えることがなければ、やがてそれを乗り切って伸び栄える。と。

 

 こうした困難の中にある時、私達は常軌を逸して我が身可愛さのあまり、運命を呪い、人を揶揄して羨むような真似をしやすいものである。しかし、そのような時であるからこそ、常道、正しい道に戻って山のように不動心を養う必要がある。

 水は困難を表しているが、同時に正道を示す卦でもあるのだ。困難を招く一番の要因はその衝動より外れたからと言えなくもない。だから、もう一度正しい道に戻って誠意を忘れずにいれば、必ず道は開けるし、そこで鍛えられた精神は後になって人の尊敬を集めるだろうとも書かれている。

 

 

水山蹇・・・行く手には川(水卦・困難・危険)があり、危険を見て止まる(山)、それが出来る者こそ真の知者である。というのがこの卦である。また蹇はビッコ、足萎えという意味であり、足の不自由な人が川を渡ろうとしているのだから危険極まりないという意味である。

 

 私達は困難の中にあると、どうにか動き回って問題を打開しようと思うものである。しかし自分を知らないものは、足萎えと同じ事であり、分をわきまえずに動き回って益々自分の首を絞めることも多い。

 困難を前にして、動き回りたい衝動を抑え、きちんと止まるためには、状況について正確に気が付いていて、尚且つ自分の能力にも気付いていなければならない。そのような人が真の知者なのだと言っている訳である。

 

 もちろん凡夫である私達は、なかなかその様な判断が付かない。そこで続けて、賢者に教えを乞い、素直に従うならば艱難を克服できるだろうと書かれている。

 そこで、この卦は、困難に出会ったら、よくよく反省して自分を省みる事の大切さを教えている訳である。どうしても自分の力で解決できない時は、エゴを捨てて素直に経験者の声に傾けることも大切だという意味であろう。

 

 

沢水困・・・沢には水が流れているものであるが、その水が下になっている。干からびた川や沼のようなものである。田畑を潤すはずの水が干からびて無いのであるから、いかんともし難い。ひび割れたコップのように水が漏れていて、水を飲む事もできないという意味でもある。問題を解決するための材料にすら事欠いている有様なのだから八方塞りに等しいだろう。

 この卦を得た時はしばしば経済的に困窮したり、留め養う事ができないので、何を言っても信じてもらえ無い事が多い。また、卦形では陽爻(ようこう)が陰爻(いんこう)に囲まれていて、つまらぬ人間に囲まれ、妨害されているケースも多い。

 しかし喜び(沢)の中にあって困難(水)に陥ったのであるから、享楽や不摂生に甘んじて自分を節制する事を忘れていたために招いた状況だとも言える。身から出た錆びがこの卦の意味ということになるだろう。

 

 周囲の甘言を真に受けて、その様な人間ばかりで自分を取り囲んでしまったのであるから、いかに困難に陥ろうとも、それを打開する知恵を持つ人など皆無である。心ある人はその様な状況をみているから、言い訳をすればするほど余計に嫌気がさされてしまう。

 このような時は、身から出た錆びなのであるから、喜んで(沢)、困難(水)を受け入れるようでなければいけないと易は教えている。その様な気概で反省してこそ、性根を正すことが出来、また周囲の人も認めてくれるというものである。

 

 しかし、この卦には続きもあって、大人は日頃から困難を喜んで受け入れているので、その様な人物にはむしろ大吉であると書かれている。困難の中にあっても正道を見失わないからである。

 

 

 さて、以上が易の示す四つの困難である。少しまとめてみると、

屯・・・生みの苦しみに当たっては利己的ではない初志を貫く事。

坎・・・正道を忘れ困難の中にある時。正道に立ち戻り不動心を養う事。

蹇・・・自分を知らぬ無謀さを改め、上長の者に従う素直さを旨とすること。

困・・・悪根(あっこん)から錆が出るのだから、日頃から節制を旨とすること。

 となるだろう。これが易が教える困難期の乗り越え方なのである。どれもなかなか難しいことではあるが、日頃から心がけておきたいと思う。

 

2007/03/17 15:02|卜術房:易に学ぶTB:0CM:0
 

2007年3月春分 

 3月21日09:07に太陽は黄経0度至り、春分となります。当日の干支暦は

 二黒丁亥年 一白癸卯月 三碧甲寅日 三碧己巳刻 です。

 干支暦からは少々騒がしい月末になりそうです。実際的な形にはならないでしょうけれど、声高らかに叫びを上げる気配が濃厚です。また時期的にも火災や雷害に注意が必要かもしれません。

 後半二週間のキーワードは若い男性、歌手、アナウンサー、長男などが三碧象意。春闘なども時期的に規模が大きくなるなどの気配もある。また地震等も三碧象意に含まれる。三碧木星は声あって形なし、、、なので、実害はそう大きくはないかもしれないが。。。 

 しかし、三碧木星は春を示す九星であるから、今の時期にはふさわしいかもしれない。新しい事を計画したり、活動を踏まえて目標を決めるには良い時期といえるだろう。

 

 ところで春分の三日前に春彼岸が始まる。彼岸は春と秋の二回あるが、春分を挟んで前後三日の一週間、秋彼岸は秋分を挟んだ前後三日間づつの一週間となっている。

 彼岸は言わずと知れた仏教の行事であるが、不思議な事に、この行事があるのは日本だけで、他の仏教国には見当たらない。

 その彼岸のいわれは幾つかあるようだが、その中の一つに春分、秋分の時は太陽が真東から昇り真西に沈むからというものがある。

 正確に真西に沈む太陽。西は仏教思想では極楽浄土を現しているから、仏の行事と結び付けられたというものである。真東、真西というのも、仏教の中道思想を表していて、先祖の霊たちが偏ることなく中道を歩む事ができるようにという意味らしい。

 

 当家でも毎年、この時期は春祈祷を執り行っている。春のこの時期に一陽来復を祈り、ご先祖への感謝と、芽吹きを願う行事となっていて、近所の方々に御参加頂いて春の陽気を持って災いを払う。

 といっても我が家はお寺さんでも、神社でもなく、祖父の代より始まった行事でもあり、出来うる限りは続けてゆきたいというだけなのだが。近隣の方々のご好意もあり、ありがたいことに長らく続けてくる事が出来た。

 この春祈祷が済むと、この辺りでの農事も本格的な時期が始まる。農家が多い地域であるだけに、この時期は一年の始まりに等しい感がある。

 長い期間、雪の下で眠っていた田畑も、ぼちぼちと目覚め鍬が入るのを見ると、お正月以上に新しい年が始まったと思えてくるから不思議である。

 

 一陽来復とはもともと易から出た言葉で、「不遠復 无祗悔 元吉(遠からずして復(かえ)る。悔いに祗(いた)るなし。元(おお)いに吉)」とある。

 遠からずしてかえるとは、間違いがあっても、気が付いたらばすぐさま正すという意味で、そうすれば後悔する事もなく、かえって大いに吉である。という意味である。そして、易経では、それが身を修める方法だと教えている。

 人生と季節を対比させるなら、冬は困難な時期であり、動こうにも動けない時期という事になる。けれども、その様な困難に陥るからには必ず相応の原因があるのだから、その間違いに早く気が付いて正す。。。それが一陽来復、春の訪れという事になるだろう。

 

 一年の朝を迎えるのであるから、清々しい朝を迎えたいものだと思う。皆様もこの春彼岸に御先祖に香を手向けてみられては如何だろう。

 

2007/03/16 23:06|暦の話TB:0CM:0
 

流転して止まず 

 東洋占術の最も基本的なところに易があります。易は太極という大本が陰と陽という二つに別れ、これを『両儀』といいます。両儀は更に陰陽を付加して『四象』となり、更に陰陽を付加して『八卦』と進化します。この八卦が易の重要な基本になります。

 易はその八卦を組み合わせて、八卦×八卦の64卦から成り、一つの卦は六爻という陰陽からなりますので、全部で384種類の結果がでてきます。もし本筮法という方法で立卦しますと、更に之卦といって384爻に卦が変化しますので。一つの事を占っても384×384種類で約147000通りの結果が最終的に導かれます。

 

 陰と陽というたった二つの要素が147000通りの結果を私たちに示すのですから、その深遠さは計り知ることが出来ないのではないかと思うほどです。これほどの細分化も可能であるがゆえに、易は千変万化して移り行く人生の万象を占う事が可能ともなっているのでしょう。

 そのような易を学ぼうとする時に、もし147000通りの組み合わせを覚えようとすると、占者はいきなり迷路にはまり込む事になります。けれども、その組み合わせも実はたった八種類の組み合わせ、、、引いてはたった二通りの組み合わせしかないのだと理解すれば、とたんに易ほど理解しやすい占いはないと言うことになるでしょう。。。

 

 易を学ぼうとする人は、だれも147000通りの結果を覚えようとはしないでしょうし、易を教える人もそのような無謀な真似をすることはないでしょう。そう考えると、私達の人生もまさに易と同じようなものだという事に思い至ります。

 私達は様々な悩みや問題を抱えて生きていますが、その悩みや問題だけを見詰めていると、147000通りの迷路に迷い込む事になります。様々な問題や悩みも、実はたった二つのシンプルな問題の組み合わせではないかと、、、考えて見ますと、なるほど気付かなかった見方もできるようになるものだと思います。

 人それぞれに考えがあり、思いがあり、人生上の問題悩みがあり、一人一人がまったく違うように見えていても、それは実際には陰と陽という二つの要素の組み合わせに過ぎないのではないかと。。。そんな風に思えてきます。

 

 対外的なところばかりに目を向けると、まさか人間がたった二つの要素で出来ているとは、なかなか納得できるものではありません。それでも、よりシンプルに物事を見ようとする試みは、実に多くの収穫を与えてくれるものではないかと思います。

 シンプルだからこそ応用が利き、流転して止まない出来事に対応が出来るというものではないでしょうか。。。

 

 私達の周りには様々なハイテク機器が氾濫するようになりました。しかしそれらは、あまりにも高度になりすぎて、一箇所が壊れると、全体が駄目になるという危うさも含んでいるように思います。

 昔の車はどこかが壊れても、だましだましでも結構動いてくれました。直そうと思えば、簡単な構造を知っていさえすれば、素人でも結構修理できたものです。しかし、最近の車はそうは行きません。ヒューズの一本が切れても車は動かなくなってしまう事もあります。

 まるで、こうした構造は現代そのものに思えてしまいます。147000通りの変化を全て覚えようとして、迷路に嵌まり込むように、、、

 

 有天地然後有萬物と易経には書かれています。「天地有り、然る後に万物有り」と。この天地とは陰と陽、父と母、我と彼、心と肉体、、、、詰まるところ、こうしたたった二つの物の対立と統合の中に森羅万象が生まれるという意味です。

 更に言えば、その二つも太極というたった一つのものの中の局面に過ぎません。見かけの煩雑さに捉われず、シンプルに、物事を見てゆきたいものだと思います。

 

2007/03/14 21:03|卜術房:易TB:0CM:8
 

潜在意識は遺伝する? 

 『四禅八定』の話から、不思議な縁(えにし)の話に至ってしまった。これも流れかもしれないと思いつつ、過去を振り返ってみると、色々とお世話になった方々、また親しくして頂いている方々とは摩訶不思議な縁があったと知らされる事が度々ある。

 ひょんなきっかけでとても親しくなった方が、よくよく話をすると曾祖父の代にはお宅ととても仲が良かったらしい。。。などと解ったりする事がよくあるのだ。もちろん、その間は両家の付き合いはまったく無くなっているのにである。。。

 それが決して近いところだけではなく、予想だにしない遠方の方ともその様なつながりが解る事があると、本当に縁の不思議さというものを感じずにはいられない。

 

 親の因果が子に報い。。。と昔の人は言ったものだが、何代もの世代を超えてその様な事もあるのだと知ると、情けは人の為ならず。。。と痛感させられる。

 もっともこの場合は、その情けは私達の孫子、曾孫、、、あるいは十代も先の子孫の為になる場合もあるだろうが。。。親の徳はまさに子孫の徳になるのであろう。。。

 因果という事を考えると、このような良い因果もあれば、それに反して悪しき因果もあるだろう。自分の不徳が自分に帰ってくるだけなら納得も行くし我慢も出来ようが、それが子々孫々に渡るとなれば、自分の行いも日々吟味せざる得ないというものだ。

 

 この手の因縁話をすれば、よく引き合いに出されるのが先祖の因縁の類で、先祖の悪行の因縁によって子孫が苦しむというものである。私は霊的な存在を信じているが、それでも本当は何もしていない子孫が祖先の悪行によって苦しむとは、何と理不尽な話だろうと、これだけは信じたくはない話しなのだ。

 けれども、今回のような縁を感じる度に、そうとばかりも言ってはおれないのかもしれないと考えさせられる。

 

 最近は個人主義なる考え方が幅を利かせるようになって久しく、そのせいかますます、自分の因果が子に報い、、、などと考える人はいなくなったであろう。しかし、こうした事が実際にあるとすれば、なんとも無責任な話、知らぬは仏とはこのことかと些か空しさすら覚えてしまう。

 そのような事を考えると、昔は大層に重視した、その家の体面というのも案外幸せを作り出す方法だったのかもしれないと思えなくもない。何しろ個人主義なら恥や罪は自分が受ければよいが、家の体面ともなれば、その家の顔を担いでいるようなものだから、自然に不条理な事も出来なくなるというものだ。

 家の体面重視で自分を否定され、辛い思いの中で生きた人たちも多かろうが、決して悪いだけの仕組みともいえないようだ。

 

 ところで、こうした家系の因果が遺伝すると明らかにした人がいる。等ブログでも度々登場するユングであるが、彼は無意識と集合的無意識を唱えたパイオニアであり、その卓見は驚嘆に値すると思う。だが、個人の無意識からいきなり人類全体の無意識へと一足飛びに行ってしまったのでは、はなはだ都合の悪い面もあるだろう。

 丁度その中間を埋めるように、潜在意識が遺伝すると考えた人がいる。ユングと同じフロイトの弟子、ソンディである。かれは父母、祖父母、曾祖父母と先祖から遺伝して身体の病気や、心に影響を及ぼし、その人の運命に影響を与える遺伝する無意識なるものを発見した。

 

 

 

 それを土台に運命分析という分野を確立したが、無意識の遺伝という極めて特殊な視点のせいか、それともソンディ・テストという並べられた顔写真を見て、好きな顔と嫌いな顔を選ぶだけという不思議なテストのせいか忘れ去られた感がある。

 それが最近は再度注目を浴びているということであるが、この一見奇異な理論は、冒頭に記した事を考えると簡単に無視する訳にもいかなそうだと思う。もっとも私はその道の専門家ではないので、だからといってどうする訳にも行かない。

 それでも、今まで因果だの因縁だのといえば心霊や信仰の世界だけのものであったそれが、少しは科学の世界の中でも語られているのかと思うと心強い感慨を覚える。

 

 いずれにしても、我が行いが子々孫々の幸不幸に少なからず影響するのかもしれないと思うと、また違った目で自分を見詰めざる負えないと決意も新たになろうというものだし、それが親心というものだろう。。。

 欲しいというものを買い与えるばかりではなく徳をこそ子供たちに残せるのであるとすれば、これに勝る贈り物が果たしてあるだろうかと思う次第である。。。

 

2007/03/10 01:43|心象房:願望実現TB:0CM:11
 

最近気になっていること^^; 

 東洋占術の最重要点は暦にあるといっても過言ではないと思うのだが、その暦の事で最近気になっていることがある。

 一年間の日数は約365.24219日だから365日として4年に一度閏年を設けているのは御存知の通りである。このサイクルに東洋占術では60干支および九星を循環させて日々の暦を作っているので、実質的には180日サイクルが出来あがる。

 九星に関しては夏至から冬至に向かっては陰遁と称して九紫・八白・七赤・・・一白・九紫と減じて行き、冬至から夏至に向かっては陽遁と称して一白・二黒・三碧・・・九紫・一白と増えてゆく。従って360日サイクルが出来上がることになる。

 この陰遁と陽遁の切り替えが夏至と冬至に最も近い甲子の日ということになっている。 ところがこれが微妙で数年に一度例外的に七赤や三碧で切り替えになる年がある。

 

 そこで、日の運用はもとより太陽が基本なので、日にちではなく太陽の度数で見たら良いのではないかという発想が湧く。これなら一年は360度で閏年という事もなくなり整然とするのではないかと考える訳だ。360度なので陰陽遁合わせて360九星干支でピタリと当てはまるのだから、期待も膨らもうというものだ。

 という訳で作ってみたのが下の羅盤である。

raban.GIF

 ちと見づらいと思うが、雰囲気がわかってもらえれば嬉しい。一番外側の360分割にはきちっと九星干支が陰陽遁に分けて入っている。といっても、まだ完成したわけではなく試行錯誤の途中なのであるが、まあ、おおよそこんなものではないだろうか。。。

 

 とは言っても少々気になるのが度数の取り方で正確に度数のみで対応しようとすると、一日の境界がとても曖昧になる。普通なら朝が来れば一日の始まりという感覚だが、場合によっては夕方とかに一日が始まるので、その辺が私達の感覚には合わないだろう。

 また、一日の始まりが決まっていないので、時間のとり方をどうするかという問題も出てくる。時刻は占術の場合12刻に分かれるので、太陽の1度を12分割して決めるのも可能であろうが、紫微斗数の命宮の取り方を見ていると、その時刻のアセンダントで取っているようである。

 だから、この場合アセンダントを用いて時刻分割を取れば良いのかもしれないが、季節によっても上昇星座は変わってくるのでこの辺をどう処理すればよいのかという問題も出てくるだろう。

 この辺が整理できると、なにやら面白くなってきそうだと思うのだが、、、そこまでするなら素直に七星四余とか占星術を使った方が良いだろうというオチになりそうな予感もするが。。。^^;

 

2007/03/10 00:14|占術全般TB:0CM:0
 

四禅八定 

 仏教の世界観では欲界、色界、無色界と大きく三つの世界からなっている。覚者となった如来の世界は無色界の遥か彼方に在るといわれ、この三界には入っていない。解脱したものは生まれ変わってくる事がないので、知りえない世界だからという事だろうか。。。

 

 欲界は地獄、修羅、餓鬼、畜生、人、天の六つの世界に別れているので六道といい、人はこの六つの世界で転生輪廻を繰り返すといわれるので、これを六道輪廻という。生前の功徳に従って解脱をするまではこの六つの世界のどこかに生まれ変わると言われている。

 

 地獄は生前の罪を償うために行く場所とされ、八熱地獄と八寒地獄があるから16種類の地獄があることになっている。更に各地獄にはそれぞれ四つの門があり、一つの門につき四つの副地獄があるから、計256種類の地獄があることになる。

 修羅界は阿修羅の住まうところで、絶えず怒りと闘争に明け暮れる世界である。

 餓鬼界は貪りの世界であり、食べ物を口に入れようとすると急に燃え出してしまうので、飢えと渇きに苛まれる世界だといわれる。

 畜生界は牛馬の世界であるが、言ってみれば本能の赴くままの世界であり、人間にこき使われ、されるがままの世界であり、自己がないので救い難い世界でもある。

 人の世界は、御存知のように苦しみの世界であるが、時には楽しみもあり、仏に成り得る可能性もあるのだから、ここに来てようやく人は救いにあずかることが出来る。

 天界の住民はとても長い寿命を持っており、空を飛び、諸々の楽しみの中に住まう事ができる世界である。それでも煩悩から解き放たれては居ないので、いずれ寿命が尽きる時が来て、五衰という死の調候が現れる。身体に垢が出てきて悪臭を出し始め、脇の下に汗をかくようになり、居心地が悪くなってきて、頭の上の花が萎む。

 このように、たとえ天界の住人といっても、いずれ死を迎えて六道の何れかに生まれ変わる事になる。

 

 欲界の上には色界がある。色界の住人は食欲と淫欲を断っており、光明を食するとされるのだが、「色」と名が付くだけに、まだ物質世界に対するとらわれが残っている。

 この世界は大きく四つの世界、さらには18の天に別れているので四禅十八天の世界である。それは初禅、二禅、三禅、四禅と呼ばれているが、欲望や捉われの心から離れるに従って上の世界へと住まう事になる。

 

 色界の更に上には無色界というところがある。無色なので、この世界の人は欲望も物質も超越しており、「識(精神)」の活動のみが残っている。

 この世界も四つの世界からなっていて、第1の世界は「空無辺処」と称して一切の想念を滅していて、宇宙の無限を感得している人たちである。第2の世界は「識無辺処」と称して、「識(精神)」は無限であると感得している。次の第3界は「無所有所」と呼ばれ一切の色を断って、何ものも無しと感得している。第4界は「非有想非無想処」と称して、何ものも無しという思いすら断ち切っている。

 この第4界が天界の最上部である所から「有頂天」という言葉はここから来ている。

 

 これがあの世も含めた大まかな仏教の世界観であるが、お釈迦様などの如来の世界は、この無色界の更に遥か彼方にあるといわれる。しかし、今回は仏教の世界観を著すのが目的ではない。

 「一念三千」という言葉があるが、この三千とはこれまで書いた欲界、色界、無色界の世界にはそれぞれ千の段階があるとして三千世界と称するとも、あるいは過去、現在、未来、それぞれの一千世界があるとも称していて、私達の思い(一念)が、それらの何れかの世界に通じるところから「一念三千世界に通ず」と言われるところなのである。

 

 これを翻せば、私達の心は絶えず揺れ動いているが、その度毎に、時には地獄に通じ、時には天界に通じという具合にはなはだ落ち着きなくあっちに振れ、こっちに振れを繰り返しているものである。

 一念が三千世界に通じるという事は、その都度、通じた世界を呼び出しているに相応しい。もし私達の今この瞬間の思いが修羅界に通じているなら、私達は今この瞬間に修羅地獄を呼び出しているのであり、もし、無色界に通じるなら、私達は今この瞬間に、無色界をこの世に、そして自分の周囲に呼び出しているということになる。

 

 実際、仏教では四禅八定の瞑想の段階があるとされるが、その思念、禅定の段階は、これまで書いた欲界、色界、無色界に通じており、それぞれ四つの禅定の段階がある。それ故に四禅八定と言う訳である。

 

欲界に対応する四つの段階は

  • 粗定:意識を集中して雑念を払う段階。
  • 細定:より深く集中して雑念がだいぶ治まった段階。
  • 欲界定:意識は安定し、夢を見ているような感覚だが身体の感覚が残っている段階。
  • 未到定:身体そのものの感覚が薄らいで、幸福な気分に到る段階。

 

色界に対応する禅定の四つの段階は

  • 初禅:更にとても気分が良くなり、様々なビジョンが見えてくる段階。
  • 二禅:ビジョンすらも薄らいで幸福感だけが強まる段階。
  • 三禅:自分の幸せな気分すら冷静に見えてきて、充足感のような気持ちが出てくる段階。
  • 四禅:煩わしい思いは既に消えて、静寂な充足感に満たされる段階。

 

無色界に対応する禅定の四つの段階は

  • 空処定:寂とした充実感が消えて、無限の空になる段階。
  • 識処定:空であるという感覚すら消えて、精妙な意識(末那識)の流れだけが残る段階。
  • 無有処定:末那識すら消えて、自他の境界がなくなる段階。
  • 非想非非想処定:一切の対象物が消えてしまう段階。在るのでも、無いのでもない段階。

 

 このように禅定は進むとされている。

 段階は数あれども常住するとなれば、これまた話は別である。が、時にはくつろいで一段上の感覚を目指してみるのも、また楽しいのではあるまいか。。。

  

一念三千、せめて人らしい想いの世界に住みたいものだと思う。。。

 

2007/03/06 21:29|山術房:瞑想TB:0CM:10
 

2007年3月啓蟄 

 3月6日8時18分に太陽は黄経345度を通過して啓蟄となります。干支暦では

 二黒丁亥年 一白癸卯月 六白己亥日 二黒戊辰刻 より3月が始まります。

 

 2007年丁亥    3月癸卯     6日己亥日    8時戊辰刻
 ┌破┬―┬─暗  ┌─┬─┬─┐  ┌破┬─┬─┐  ┌─┬─┬─暗
 │1│6│8│  │9│5│7│  │5│1│3│  辰1│6│8│
 ├─┼─┼─┤  ├─┼─┼─┤  ├─┼─┼─┤  ├─┼─┼─┤
 │9│2│4│  卯8│1│3破  │4│6│8│  │9│2│4合
 ├─┼─┼─┤  ├─┼─┼─┤  ├─┼─┼─┤  ├─┼─┼─┤
 合5│7│3│  │4│6│2合  合9│2│7│  │5│7│3破
 └─┴─┴亥┘  └─┴暗┴─┘  └─┴─┴亥暗  └─┴─┴─┘

 

 先月はあちこちで列車とかトレーラーとかの事故が多かったが、二黒年・二黒月で、二黒が重なる事によって先天象意の四禄の意味合いが強く出たのだろうかと思案しております。亥の年、寅の月で支合の関係がその象意を強めたのかもしれない。

 その様に読むと、太歳の付く三碧、月支支合に当たる三碧と、三碧の先天卦離(火)の象も強まったと思われ、実際火災が各地で多見さされたように思う。

 

 今月気になるのは年盤で太歳神が付いている三碧が月破になる事と歳破の付く一白が中宮に来る月運だという事である。時期的に一白象意の水害という線は薄いだろうが、水難事故や、酒席に絡んだ事件、あるいは酒の席での口論などのトラブルが多くなる可能性が高そうだ。来月4日まではその傾向が続くので、歓送迎会での飲酒運転などには注意を要したい。

 

 本命星一白の人は、何かと忙しくなる月であるから、のんびりとする時間を大切にした方が良いだろう。また母親、妻との関係が身近になりそうだが、少々ストレスはたまるかも。。。

 

 本命星二黒の人も何かと忙しくなりそうな気配がある。ただ、対人関係では結果的に信頼関係を築けるので一頑張りの時期。

 

 本命星三碧の人は、一言過ぎる事になりやすいので酒食の席では注意が必要。また、この時期の縁談、恋愛などは自分から話をぶち壊しにする行動に出やすいので自重が必要。

 

 本命星四禄の人は、変化宮に入って五黄同会となるので、人事の改選などで苦労しやすい。また疲労なども蓄積しやすいので健康には留意が必要。

 

 本命星五黄の人は、一月年明けから続く家庭内での問題は一段落しそう。離宮に回っているので短気は禁物だが新しい発見・気付きには良い時期。六白に同会しているので特に父親、夫、上司に対する時は感情的にならないように注意。

 

 本命星六白の人は、気持ち的に浮沈が多く困難や不足を感じやすくなる時期。気分転換に遊行するのは良いが月末は厳しくなるので程ほどにすべし。

 

 本命星七赤の人は、地道に送ろうと思う時期だが、周囲が何かと騒がしい時期なので、気をとられずにマイペースで進むべき時。

 

 本命星八白の人は、何かと忙しくなる時期。将来の発展に向けて活動する時期だが、文書関係のミスには注意。活動の情報収集に縁があるので、計画作りには最適な時期。

 

 本命星九紫の人は、全般に安定的な月だが何かと相談事を受けそうな時期。情が湧きやすい時期だが、この月に始まる事には注意が必要なので慎重に対処すべきなので、その点だけは深入りしないように注意が必要。

 

 西に玄関のある家庭は、口論や金銭問題などのトラブルが生じやすいが、赤いマットや置物で凶意を和らげる事ができる。

 北に玄関のある家庭では、一家の主人に関するトラブルや問題が生じやすいので注意が必要。黒、あるいはグレーのマット、更紗の置物や飾りなどで凶意を和らげる事ができる。

 南に玄関がある家庭では、契約や文書上のトラブルが起こりやすい。黄色のマットや陶器製の置物を配して凶意を緩和しよう。

 

 以上簡単ですが、皆様の幸福を祈ります。


2007/03/06 16:59|開運についてTB:1CM:14
 
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