AX
趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

プロフィール 

Author:やわたうま
 最近当ブログの記事に関連性の薄いトラックバックなどが急増しています。
 該当TB等は管理人の判断で削除させて頂いておりますので、あらかじめ御了承下さい。

FC2 Blog Ranking


人気blogランキングへ

最近の記事&コメント 

最近のコメント ★全ての記事を表示する★

お奨めサイト 

カテゴリー 

検索フォーム 

メールフォーム 

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ 

最近のトラックバック 

RSSフィード 

カウンター 

ブロとも申請フォーム 

この人とブロともになる

02.坤為地:従順化育、柔よく剛を制する 

 第一の卦、乾為天(けんいてん)の次にこの坤為地(こんいち)が記されている。乾為天が全陽の卦であるのに対して坤為地は全陰の卦となっている。易では陽と陰が互いに対立し合い、結びつき合いながら森羅万象を生み出してゆくと考えられている。
 乾為天が父の卦であるとすれば坤為地は母の卦という事ができるだろう。
 天の働きは剛強で止むことがない。しかし、そのような天の働きも地に巡り会わなければ形として表れる事は出来ないのである。

 坤は全陰の卦であるので静の極地で従順の徳を示している。けれどもいざ動く時は乾(天)にも抗う力があると書かれている。それでも坤は乾には決して勝てない事を知っている。その分をわきまえた知恵も坤の徳だと言えるだろう。
 坤は全陰で全てにおいて従であるから私心がない。私心がないゆえに天にも拮抗できるほどの強さがある
 そして坤は全陰であるがゆえに相手に合わせて受け止めることが出来る受容の徳がある。相手を抱きかかえ受け止めて化育する事が坤の本分であり母の姿と言えるだろう。

 思えば従順化育は私たち日本人の姿であったように思う。それが西洋文化の流入によって、人より抜きん出る事だけが美徳のようになってしまった感がある。
 人より優れている者だけが良いという価値観は弱者を排除する。現代教育はそれを学業の点数で行ってきた。しかし考えてみれば、その様な基準では大半の人間は弱者に回ることになる。それだから個性と叫び、比べる価値観を増やそうという事になった。そうすれば様々な分野で優れたものが表れて強者を増やせるという発想だろう。
 だがそれも、元にあるものは競争の原理だから、これも駄目あれも駄目と敗者になり続ける人間も作り出してしまう。

 問題は明らかだ。優れた人を認めるという徳がある事を教えようとしていないからである。誰もが勝者になるためには人の数ほどの価値が必要になる。そうでなければ誰もが勝者になること不可能だ。そして、それだけの価値観の多様性を生み出すことも不可能だろう。つまり、その方向は最初から破綻しているのである。
 けれど従受、順受という美徳があり、誰もがその美徳を認めるようになれば、誰も敗者はいなくなる。。。

 古来の日本人は従順の美徳も知っていたように思う。主従の関係は一対だと。。。
 昔の武士は殿様と主従の関係を結び君主に従った。家臣は何でも君主の言いなりだったかというと、そうでもなかったと聞いた事がある。
 主従の関係は結ぶものであり服従や隷属とは違うということをお互いに理解していたという。だから家臣も意にそぐわない君主を見限る事も少なくなかったし、それだけに君主も自ら襟を正す必要があったという。

 大地、母を表す坤は、受け入れ、従う事で、人と化すように育ててゆく。母の化育力は今も昔も甚大なのであると思う。が、その母も競争の原理に毒されては化育の力は働かないだろう。。。

 易経の文言伝には「直・方・大、習わずして利ろしからざるなし」と書かれている。
直とは正しい事であり、方とは義にかなうことである。
 君子は敬によって心を直しくし、義によって行動を方正とする。敬と義が確立すれば、徳は大きく広がり行くという意味だ。敬うとは決して勝者の論理ではないだろう。

 ところで坤の従順は乾に対してである。坤は地に生きる私たちであり、乾は天、神、深い心の事だ。
 従順の徳は外に対してだけではなく、私たち自身の内部にも必要だという事ができるだろう。平たい言葉で言えば良心に従うことだし、スピリチュアル的に言えば心の深いところから来る言葉に従いなさいという事だ。
 私たちが、自身の心の声を感受するとき、そこに森羅万象を生み出し得るのだと教えているように思う。

 私心を虚にして、あなたの深いところの思いに従順でありますように。。。

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ

2007/05/31 10:36|卜術房:易に学ぶTB:0CM:0
 

水のように。。。 

 水は高きより低きに流れるのが決まりです。天においては気化して雲となり、液化して雨となり、更に冷えて氷となります。

 この三態は私たちの三つの姿を表しています。つまり肉体、幽体、霊体の三つです。私たちの姿を表す水は、天においては無形の気体。地に降りる時には雨という液体。さらには冷えて氷という身体に至ります。

 それも時を経ては溶けて液体に戻り、末には蒸発して天に帰るという輪廻の姿を表してもいます。

 一粒一粒の雨はそれぞれの人を示し、海に至っては全ての雨粒は一つになって、一粒一粒で存在していると思い込んでいる私たちが本当は一つであると示します。

 高きより低きに至る定め事を持って森羅万象の法則を示し、その水は波打ってあらゆる法則が波動の法則だと教えています。

 水が固体から液体、液体から気体になるには熱(火)が必要です。火は情熱や知恵、理想を象徴しています。

 どんなにいびつな形の氷も溶けるに従ってまん丸になるように、、、ゆくゆく私たちもまん丸な心を持つことでしょう。

水の姿を熟視していると人の姿、宇宙の姿が見えてきます

 以前妖精たちの夢を見たときに、水の精はこんな事を話してくれました。その水は五行思想では「交わり」を象徴しています。

 あそこに落ちた石と、こちらに落ちた石、あちらに落ちた石と、いくつかの波紋が折り重なって様々な幾何学模様を生み出します。宇宙に落とされた石は全部で七つあると教えてくれました。

干渉.jpg

 七つの波が折り重なって、あなたが生まれ、私が生まれ、誰かが生まれます。七つの波の重なりは場所によって微妙な差が生まれ、それがあなたや私や誰かの個性となっています。だから私たちには七つの系統があると言われます。

 けれども、全ての波は互いに関連しあっていて、一つも独立して存在する干渉稿はありません。。。それだから、あなたが変わるとき、相手も変わり、状況も変わります。

 波は表面を飾りますが、波が生まれるためには、波立っていない水底が深く横たわっているものです。心の表面に起きる波に気をとられ、波を静めようと水面を掻き回してはいけません。それよりも、その中には深く静かに横たわる水底があることに気付きましょう。

 水底の深さ以上の波は決して起こりえないのですから。。。

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ

2007/05/29 15:29|山術房:心行TB:0CM:7
 

01.乾為天:勢いに乗じている時は。。。 

 今回は易卦の解説です。六十四つある卦は、人生の様々なシチュエーションを六十四に分類して解説しています。

 正しくは作法にのっとって卦を求めますが、易に馴染んでくると自分の置かれている状況を観察する事で、今自分がどの様な状態にあり、どのようになってゆくのか、、、そして、それはどの様な結果をもたらす可能性があるのかがわかるようになります。

 これが解ると自分がどのように対処するべきかも見えてきますので、易に親しむのは人生の指針とするにとても有効なのです。

 その易経に書かれている最初の卦が乾為天の卦です。この卦は全陽の卦で陽気はつらつとし、最も勢いのある卦です。自分の状況が自他共に勢いがあると感じられる時、どのようにするべきかをこの卦から学ぶことができます。

 

 乾為天(けんいてん)の卦は、上卦(じょうか)下卦(げか)ともに「天」の卦からなっています。
 天の卦は全陽の卦で動、大きい、高い、堅い、強いと言った意味を持ちます。その八卦が二つ重なって出来ているので、引くところが一つもありません。
 人で言えば環境も気持ちも身体的にも勢いがあって、何事も思い通りになるような時期に当たります。

 また乾為天は自然の摂理、働きを表しています。自然の働きは剛健積極で一瞬も止む事なく働き続けます。よって天卦はしばしば神とか神聖なるものを示す事があります。

 このような勢いのある時は、その勢に乗じて事を成してゆくべき時です。けれども自分の勢いが旺盛で、何事も通り行くような時は一瞬も油断できないと易経は教えます。
 易は「変化してやまず」が根底にありますので、いつまでもその勢いは続かないと考えるからです。満ちれば欠けるのも世の定めですから、自分の置かれている状況を正確に掴む事も必要でしょう。

 

 自他共に勢いがある時というのは、その勢いに任せて他を無視してしまいがちです。この卦はその様な気持ちに自重を促しながら、そのような時こそ謙虚に人の意見や体験談を仰いで聞き入れるようにと諭します。
 また勢いのある時は、それが自分の実力であるかのような錯覚をしがちなものです。才能はあってもそれに見合った努力、勉学がなければ実力を養うには至らず、かえって勢いに翻弄されてしまいます。

 世に出るには、それが本来の自分の実力ゆえなのか、それともたまたま運勢という勢いが味方しているだけなのかを見極める事が大切となります。
 そうしたことを見極め自分の範囲を超えることなく進む事で、その勢いをより長く維持する事ができるでしょう。

 

 自然の摂理は動いて止まず、頂点に達すれば降るしかありません。それ故に引き際という事がとても大切になります。引くべき時に引かなければ、自分にとっても周囲にとっても後悔の種になってしまうと易経は教えます。

 引き際を見極めるためには私心を排除しなければなかなか解るものではありません。進むべき時、退くべき時の見極めは私心を排除した徳がなければなかなかできるものではないでしょう。
 何事も分相応の位というものがあるのもです。勢いに乗じ過ぎても、自分を卑下し過ぎても、自分にとっても周囲の人にとっても利はありません。
 見極めを持って進んでゆく事が大切だと、中庸の大切さを感じさせられる卦です。

 

 心身ともに剛健な時は周囲の忠告もなかなか耳に入らないものです。しかし天の卦は剛健実直であると同時に、包み込む度量の大きさも示しています。ゆえにこのような時こそ人の言を聞き入れる心の広さが試されるものです。

 自分に勢いがあっても人の言葉を素直に聞けないようでは、勢いに乗じて翻弄されているということになり危ういということになります。

 強い勢いと、広い心は一対でなければいけません。寛大さ、寛容さも、勢いを保つために必要な心掛けということが出来るでしょう。

 

 もし自分に勢いがあるな〜と感じた時は、少し立ち止まって、この卦を思い出してみてください。

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ

2007/05/28 10:04|卜術房:易に学ぶTB:0CM:2
 

体験者と観察者 

 私たちは二人の私たちから出来ています。それを魂と自我と私たちは呼んでいます。何故、このような二重構造が出来上がったのか。。。を考えるといろんな事が見えてくるように思います。。。
 その理由の一つをスピリチュアル的な見方では『体験』のためだと答えています。この辺は『神との対話』などに詳しいのですが。。。少し纏めてみましょう。

 まずスピリチュアルでは、私たちは本来霊的な存在だと考えます。霊的な存在である私達は考えるとか、感じるとか、、、精神的な活動には制限がありません。けれど、唯一出来ないことがあります。それが『体験』です
 知っていても体験する事が出来ないので、私達は体験する事を望み、体験を可能とする世界を作ったと書かれています。

 しかし、よりリアルな体験をするためには一つの問題がありました。つまり答えを知っていては体験にリアリティが生じないという問題です。そこで私達は『忘れる』ようにしたと。。。
 答えを忘れてしまっているので、体験世界で生じたことを、よりリアルに、より新鮮に体験する事ができます。もし、これが本当なら、様々な事に悩むのは望むところだということになります^^;

 本当の私達は常に不変で、忘れる事も、新しく知ることもありません。それは最初から全てを知っている存在だからです。全てを知っているので悩むということがありません。これでははなはだ不都合なので何も知らない自分を創りました。。。それが自我ということになります。
 自我は何も知らない状態で生まれ成長してゆきます。だからよく失敗を繰り返します。苦難に涙し、ささやかな喜びに歓喜します。。。それこそが『体験』だからです。

 だから自我は未熟で、無知で、我が儘で、、、でも、自我の目的からすれば、それで良いということになります。もちろんいつまでもそればかりでは困ります。成長してゆく自分を体験する事も自我の目的ですから。。。
 けれど、このことを知っておけば、いたずらに自分を責める必要が無い事も解ります。だって、未熟、幼稚、迷って悩んで、ささやかな事に笑って、そうして少しずつ本当の自分を思い出してゆくことが自我の役目なんですから。。。

 よく自我は滅すべきものと言われます。ですが私にはそうは思えないのです。。。自我は滅すべきものではなくて昇華するべきものだといつも思います。昇華するとは、体験し尽くすということです。
 体験しつくすためには、今起こっている出来事をありのままに見る必要があります。それを嫌な事、体験したく無い事と決め付けてしまうと半分も体験する事はできません。それで、体験しつくしなさいと、何度も何度も同じ事が起こります。。。それが魂の望む事なので、自我には逃げようがありません^^;
 ありのままに観る。。。それが『気付いている』ということになります。

 その出来事が起こるままに任せ、何が起こっているかに気づいて体験し尽くすなら、その出来事は速やかに通り過ぎてゆくでしょう。体験しつくした出来事はもはや必要のないものだからです。
 その後に、あなたは選ぶことができるようになります。
 体験しつくして、不要になった出来事は次にはあなたの選択の素材になります。

 私達は体験しつくす前に選択をしようと躍起になりすぎます。そのようにする事で実は問題を広げている事に気が付きません。。。

 今起きている出来事に、悲しみでも、怒りでも、喜びでも、、、あらゆることを存分に体験してください。何が起こっているかに気が付きつつ、、、存分に体験してみてください。
 もし、このようにするなら、あなたは最終的に神性を体験する事は間違いがないのですから。。。

 ですから自分の未熟さを責める必要はありません。それは必要な事だからです。自分の未熟さを含めて存分に体験することが必要です。そうすれば、あなたが成長した時、成長した自分をも十分に体験する事が可能になります。

 あなたがとても困っている時、、、どこかで冷静に観ている自分を感じた事はありませんか?
 あなたが悲しんだり、怒ったりしている時、、、どこかで覚めてみている自分を感じた事がありませんか?
 それが体験(自我)を観察するあなた(魂)です。

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ

2007/05/23 11:06|山術房:心行TB:0CM:2
 

ガラス張りの心。。。 

 私が始めて精神世界に足を踏み入れたのは中学二年生の時でした。日曜日に町に出かけて、いつものように書店めぐりをしていました。その頃には本を物色するのが趣味になっていましたし、書店に並ぶ本のタイトルは殆んど頭に入っていました。
 特に精神世界や占い関係、禅や宗教系の哲学書などはどの書店のどの棚にあったというのも、概ね頭に入っていました。今のように新刊のサイクルも早くはなかった頃ですから。。。
 その頃私は書店めぐりに出かけると丸一日を費やすようになっていました。その日も朝の十時に家を出ると繁華街を中心にいつものようにあちこちの書店を渡り歩いていました。特段目新しい本もなく、ぼちぼち帰ろうかと思ったのが夕方6時過ぎでした。いつも最後に立ち寄る書店に行って帰宅するつもりだったのです。

 何故、私が本にのめりこんだのかというと、当時私の家庭環境はちょっとごたごたとしていて、自分なりに解決方法を知りたかったというのが一番の理由です。
 占いに傾倒したのも、精神世界や宗教書、哲学書に傾倒したのも、それが理由です。もっと他の方法や手段があったのかもしれないと思いますが、何故私がその様な方法を選んだのかは今でもわかりません。けれど、それを解決するためには『心』に関して熟知する事が早道のように感じられたのです。

 最後に立ち寄った書店は、いつもと同じでお客さんもまばらで、私はのんびりと物色をする事が出来ました。といっても、そう目新しい新刊も無く、いつもと変わりませんでしたので、そろそろ帰ろかと思案しつつタイトルを流し見ていたときのことです。
 背後から誰かが近付いてきた気配は感じていましたが、まあ、書店などではありふれた事ですので気にも留めずにいました。何もないな〜と出口の方に向き直ろうとした時、誰かが私の背中を押してきて、私はよろめいて、とっさに本の上に手を付いてしまいました。
 その手を付いたところにあった一冊の本が、私のその後に大きな影響を及ぼす事になります。

 それはともかく、文句の一つも言ってやろうと思い後ろを振り向いたのですが、辺りには誰もいません。本棚を挟んで向こう側に一人の女性が立ち読みをしていましたが、もちろん私の背中を押すほど彼女の手は長くはありません。
 仮にその女性だとしても、中学生といっても当時からそこそこの体格をしていましたから、私を押し倒すなんて結構な力ではないと無理な話です(笑)
 それに押してきた手は女性とは思えない大きさでしたし。。。今でも、その時の情景や感触ははっきりと覚えていますから。。。
 前置きが長くなりましたが、このようにして出会った一冊の本。。。もちろん私は、その本の表紙を見た瞬間に『買え!』という強烈な印象を受けて、中身を見る事もなくレジに走っていました(笑)

 その本自体は、私がもっとも影響を受けた人の本ではありませんでしたが、その人に辿り着くにはそう時間はかかりませんでした(笑)
 その方は既に亡くなって久しくなりますが、私が丁度この本に出会った年に亡くなられたのです。ですから私はその方の事をまったく知りませんし、今にして思うとそれが幸いしたのかもしれないと思うこともあります。いたずらに傾倒せずに冷静に読むことも出来ましたし。。。

 その方は生前、口をすっぱくしてこう語っておられたようです。

 『自分の心の中がガラス張りだと思って、誰から見られても恥ずかしくない心にしておきなさい

 多分、この一文を読んだだけで、その方が誰なのか、解る人にはすぐに解るでしょう。けれど、ここでは一応伏せておきたいと思います。。。
 が、この一言『ガラス張りの心』は、今でも私の決断の際に度々顔を出してきます。

 思いが私たちの人生を作っていると理解するようになった今、この一言はとても大きな意味を持っていると感じます。
 もし、あなたの心の中に、なにか後ろめたいことがあったとしたらどうなりますか?

 戦後の日本の精神界の偉人といわれた中村天風という方も、『後ろめたい事はするな!』と戒めています。氏は後ろめたい事をすると心が弱くなる。弱い心で何が出来るか!と、そう一喝します。
 イエスも聖書の中で『心の中で罪を犯すのは、実際にそれをしたのと同じ』だと説いています。

 スピリチュアルな方面に関心を持たれる方の多くは、とても優しい方が多いと思います。けれど、それはこの、後ろめたさに気が付きやすいからではないかと思うことがしばしばあります。
 自分の心の中の過ちに気が付いてしまうので、どこかで後ろめたさを感じて強くなれないのではないかと。。。
 けれど、そのような時、私はいつも思うのです。心の正しい人、良い思いに満ちている人は強くなければいけないと。。。もちろんそれが自己欺瞞であっては何にもなりませんが、精神世界に興味をもたれる人の多くは、少し強いぐらいで丁度良いと。。。
 誰かに対して強く在れと言う意味ではもちろんありません。自分の感じている事、信念をすぐにぐらつかせてはいけないという意味です。

 もし、あなたの信念が間違っているとしたら、それは人生が教えてくれます。自分の間違った信念にこだわり続けると最後は些か辛い事になるかもしれません。が、それでも気が付けば、いつでも修正はできますから。。。
 だから、今のあなたの信念が完璧なものかという事を気にするのではなく、今の自分が正しいと信じること、、、それをそう簡単にはぐらつかせない事が大切なのだと思うのです。
 だって、あなたが成長するに従って、あなたの信念も成長するのですから。。。

 ガラス張りの心になったつもりで、あなたの信念を確認してみてください。それが誰に見られても恥ずかしいものではないと思えるなら、迷う必要はありませんから(^^)

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ
2007/05/21 00:39|山術房:心行TB:0CM:6
 

初めて知りえたかのように。。。 

 2月に始めた蔵書整理がまだ終わっていない。。。それで、私が日頃居座っている一角は、未だに本に埋もれていて、私の座椅子の場所だけがぽっかりと穴が開いている^^;
 そろそろ片付けたいと思いつつも一行に終わる気配はないのがきつい。その中から高校の頃に書いていた気付きのノートを目にして読み返しみた。その一つをここに書いてみたい。

 

 タイトルは「悟りとは常に新しき感動」というタイトルである。悟りがなんなのかも解っていないくせに、随分と大げさなタイトルだと読み返していて恥ずかしくなるが、内容は次のようなものである。

 

『私たちは毎日の生活に慣れている。。。生活ばかりではないが、慣れてくると感動が失われる。感動する心が低下すると見ている様で見ておらず、知っているようで知らない状態になってしまう。
 毎日し慣れている事だから、解っているつもりという先入観が目を曇らせてしまっているのだろう。静かな心が悟りの条件だとしても、先入観で見て見ず、知って知らずでは意味がないだろう。無感動、無反応と静かな心は違うはずである。
 神はあらゆることを楽しめる。。。という。ならば、神の眼で見るなら、どの様なことにも新しい発見があり、感動があるのではないか。。。
 悟りというものがどの様なものか、私にはまだ解らないが、もし私が想像しているものなら、同じものを何度見ても、そこには常に新しい感動があるはずである。。。』

 

 と、このようなことが書かれてあった。

 

 慣れというものは、とても必要なものであると同時に、なかなか厄介なものだと思う。
 車の運転、キャベツを切る包丁と、、、慣れていなければ、動きもギクシャクとして事故を起こしかねない。かといって慣れ過ぎても工夫心とか研究心は湧いて来ず向上することが出来なくなってしまう。
 技術的な事に慣れるなら、向上までは行かないとしても、作業のスピードは上がるだろうし事故も起き難くなるかもしれないからまだ良い。けれどそれが、人とか、知識とか、、、ならどうなるだろう。。。

 

 人に慣れるのは大切なことだとは思う。けれど常に身近にいて慣れ過ぎるべきではない人に慣れ過ぎてしまうのは考え物である。
 新鮮味も失われ、相手を知り尽くした気になって見向きもしなくなる。。。慣れ過ぎて、人として尊重する事も失われてしまう。。。
 結婚当初は熱々のカップルが半年もたたないうちに冷め切ってしまうなどは、よく聞く話である。慣れるということは、新鮮さや興味の喪失感に他ならないのだろうか。。。?

 

 知識とか心もその様に慣れてしまうと停滞が生まれる。熟成するための時間ならとても素晴らしいが、慣れて解った気になって先に進もうともしなくなる停滞は困りものだと思う。
 この記録を書いてから、私の心がけの一つは『知った気にならない』『解ったつもりにならない』であったが、これもなかなかに難しい。
 気持ちを新たに持って自戒してゆきたいものだと思う。

 

 けれど不思議なもので、新鮮なものは輝いて見える。実際、いつも見る庭の花、、、庭木の葉一枚、、、と、新鮮に見ようとすれば輝いて見えるものである。
 実際に輝いているのかとも思えるが実際の所はどうなのだろう?

 こんな輝きを持って異性が現れたら、さぞ美しく見えるだろうと思うから、新鮮さは恋愛の強力な武器なのかもしれない(笑)
 それが知って慣れるに従って、男女間の礼儀も失われ恐ろしい事になってゆくのだから、知り過ぎれば礼が失われるという事か。。。いや、この場合、知った気になって慣れてしまうと、礼儀も何もなくなってしまうということか。。。

 

 さてさて、慣れて良いものと、慣れてはいけないものをうまくコントロールしてゆきたいものだと思った次第である。

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ

 

2007/05/18 14:27|山術房:心行TB:0CM:9
 

山狩り 

 先日地区の認知障害を持つお爺さんが行方不明となり、地区民、消防団員などが出動して一大捜索がありました。

 私は今回は本部待機で連絡員のお役目でしたので現場に出ることはありませんでしたが、山間部の農村地帯である当地区で行へ不明者が出ると大変な騒ぎとなります。。。

 ドラマなどでは映り具合の関係もあるのか、結構見通しのきく場所を歩いて山狩りする光景が使われているようですが、実際の山狩りはなかなか重労働なのであります。

 

 年に一度ぐらいはこの手の捜索があって時には、一週間も続く事もあり、今回も、はや、そのケースになるのかと誰もが心配しておりました。

 まあ、幸いな事に当日の捜索を打ち切った間際に発見され、当人も多少の衰弱はあるものの健康に問題はなかったが何よりでした。

 今頃の時期は山菜取りの方々も山に入りますので認知障害の方ばかりではなく、誰もが迷子になる可能性を秘めていますので、くれぐれもご用心の程を。。。私の住む地域では5月6月が一番山菜取りなどによる遭難が多く、全体の9割を占めていて、最近は増加傾向にあります。

 年齢的には7割が60歳以上の方で占められているのですが、いつも行きなれている山でも、どんな予想外の事が起こるか知れません。油断は禁物なのです。

 

 ところで、今回の捜索に当たり、実は折を見て立筮しておりました。10円玉5枚と100円玉1枚を使った略筮法です。得卦は『天地否の初六』でした。天雷无妄(むもう)に行くという卦です。

天地否

『否』は否定の否で、普通ならあまり宜しくありません。けれど占的は『おじいさんは何処にいますか?』というものでしたので、この卦は地形を示していると考えました。

 上卦(じょうか)は『天』で、空の見えるところ。。。また『天』には「覆う」という意味もありますので、屋根のある所とも解釈できます。

 下卦(げか)の『地』は山間部の農村地帯なので田畑を示す卦です。あるいは「平らな所」とも読めます。

 初爻を得ていましたので、とてもすぐ近くにいると思われました。

 実はお爺さんの身内の方々が、近くは自分たちで見て回ったと言っておられたので、2Kmほど離れた山中ばかり捜索していたのです。

 

 話しを聞くと、朝の4時に家を出て10時ごろお爺さんを見かけた人がいます。それから見当たらず家族からの通報があって翌早朝からの捜索となっていました。

 ところがその日は、昼頃に結構強い雨が降っていました。最後にお爺さんが見かけられてから約1時間ほどしかありません。足取りを辿るとそれまでは家を中心にあちっこっちをぐるぐると歩き回っていたようなので、そう遠くへ行っているとはどうしても思えませんでした。

 一日の捜索活動を打ち切って解散という時に、お爺さんが見つかったのですが、場所はなんと自宅から300mほどの所でした。

 

 その場所は以前老人クラブの方々がゲートボール場として使っていたところで東屋が立っています。といっても今は使われておらず放置されたままになっているために、結構背の高い草が茂っていて少し見ただけではまったく解らなくなっています。

 卦形を見ると確かに壁のない東屋の形で、場所も卦の通りの場所でした。。。^^;

 之卦(しか)は「天雷无妄(むもう)」でしたので、自然体。成り行き任せという意味の卦に変わっています。雨宿りの為に、その東屋に行ったのでしょう。そのまま自分の帰る家が解らなくなったのかもしれませんが、思い出したのか、おなかが減ったのか、丸一日以上もそこにいて、ようやく出てきたところを見つけられたという顛末のようでございます。。。

 

 無事に見つかったので、このようなことも記事に書けますが、、、皆様も、山中に入る際はくれぐれもご注意の程を。。。 ^^;

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ
2007/05/18 00:11|卜術房:易TB:0CM:0
 

エネルギーの境界を探してみる。。。 

 現代の科学は宇宙が元々エネルギーであったと説明しています。言葉としては理解できるけれども、全てがエネルギーだとしたら一体どの様なことになるのでしょうか。

 私たちの目の前に堅固に存在しているあらゆる物質、、、それが本来目には見えないエネルギーだということになると、果たしてそれらは存在しているのだろうかと考えさせられます。

 今日はその、物質という事を少し考えてみたいと思います。

 

 今、皆さんは全てをエネルギーとして見る心の目を手にいれたと思って下さい。

 目の前にあるコップを御覧下さい。美しいクリスタルのコップがあなたの目の前にあります。それが徐々に輝きを増して元のエネルギーへと戻ってゆきます。

 ガラスという形が崩れてゆきます。更に、何となくコップの形を留めてはいますが、堅固な形だったコップが得体の知れない無形のエネルギーとして現れ始めます。

 そして、ついにコップは完全に自由で不定形なエネルギーそのものに戻ってしまいました。。。

 そこにはコップという形は既になく、コップのような波動(雰囲気)を持ったエネルギーだけが存在しています。。。

 さあ、コップという雰囲気を感じてみてください。。。あなたは今、コップという形ではなく、コップという雰囲気を見ているのです。。。

 

 さて今度は、この全てをエネルギーとしてみる目で、今度は自分を見てください。そして、あなたの隣にいるご主人、奥さん、あるいはお子さんや恋人を見てみましょう。

 不定形の光の集まった中心があなたであり、また、あなたの愛する人だと解ります。そして、あなたを形作っていた光は四方八方に光を放ち無限の彼方へと広がっています。

 さて、あなたというエネルギーと、宇宙あるいは空間というエネルギーの境界をあなたは見つけることが出来ますか?

 あなたというエネルギーと奥様・ご主人というエネルギーは、二人の丁度真ん中で交じり合って溶け合っています。

 あなたは、あなたというエネルギーと、あなたの伴侶との間に境界を見つけることが出来ますか?

 あなたと、あなた以外の誰か、何かは、どの地点で別々になっていますか?

 

 もし、あなたが、全てをエナジーとして見る目を持つなら、どこにも境界は無い事に気が付くでしょう。ただ、ちょっとだけエネルギーが集まった部分があちこちにあるだけだと気が付きます。

 無限のエネルギーで満ちた宇宙、その中で、少しだけエネルギーが高くなっている場所、、、それがあなたであり、誰かであり、あなた以外の何かです。

 

 このような目で見ると全てが一つだとわかります。

 あなたが、宇宙から分離していると思い込まない限り、宇宙にある無限のエネルギーは、あなたを通して流れます。そもそも、分離しているというのは、単にその様な雰囲気を感じているに過ぎないと気が付くでしょう。

 さあ、もう一度、あなたとあなた以外の存在との境界を、全てをエネルギーとしてみる目で探してみてください

 あなたが探し疲れてクタクタになって「私たちには境界はありません!」と叫びたくなるまで。。。(笑)

 

 宇宙は一つなので、元々愛しかありません。だって宇宙はあなたですから、自分を愛する(大切にする)以外のことはしようがないのです。

 あなたの手を見て、これは私ではないと、あなたは思いますか?

 手は私ではないから切り取ってもいいなんて思いますか?

 それより、ちょっと指を切ったら、痛い!痛い!と大騒ぎするでしょ(笑)

 

 あなたの手に麻酔を打ち続けているのをやめましょう。あなたの足に麻酔を掛け続けるのを止めてみませんか?

 そうすれば、あなたには色んなものを掴んだり作ったりする手が、好きな所へ行ける足が復活します。

 

 もはやあなたの目には、目の前のコップがどんなに「私は一人で存在している!」と主張しようと、全てとつながっている様子が見えているはずです。

 手足を失って不自由な自分から、手足を取り戻して自由なあなたへ生まれ変わって下さい。全てが一つだと理解する事、それがあなたを自由にするでしょう。

 

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ
2007/05/16 21:10|山術房:心行TB:0CM:3
 

正義:信じるところを為す 

 今回は最後の五行となりました『金気』の話です。

 

 金の気には「」が当てられていますが、正義、義理、義憤、律義の「義」となります。「義」は元々「格好の良い事」を示す文字で「形を整える」という意味になります。そこから物事の筋道とか理(ことわり)を示すようになります。

 金気は土気から生まれますので「思いが形になったもの」を「義」と言って良いかもしれません。

 金気の示す「義(正義)」は思い・思考(土)から生まれたものです。この事は正義というものが私たちの考えや思いから生まれているという事。つまり私たちが何かを目指す時、目指すものを達成するものが「正義」であり、それに反するものが「悪」であるという事を教えています。

 

 そのような意味では「正義」は人によって異なるもので、場合によっては悪が正義になりうることを示唆しています。

 というのは誰かを苦しめようと意図している人にとっては、相手を苦しめる事こそ、その人にとっての正義となってしまうからです。

 一般に正義とか「正しい」というものは唯一無二で普遍的なものだと思われがちですが、その正義を決めているのが私たちである以上、人の数ほど正義の種類はあるといっても過言ではないでしょう。

 正義は一つしかないという考えは必然的に正義の強要を生み出し、相手の心身を拘束しようという動きにならざる得ません。

 けれども五行思想で考えると前述したように「思いを為す事、またそれに寄与する物事が正義」と理解する事ができます。

 

 しかしそれでは、人々は互いに自分の正義を主張して争う事になり、程なくして社会は混乱してしまう事になります。

 実際『金気』は「闘争」を象徴する五行ですが、この闘争は本来切磋琢磨を表します。というのは金属は焼かれ、叩かれ、磨かれて初めて形を整えるからです。切るも磨くも金の象なんです。

 それぞれの主張する正義は、この金属と同じように焼かれ、叩かれ、磨かれて行かねばならないということが示されているという訳です。

 思いが形を持とうとする時、必ず練成の摩擦が生じます。しかしそれは磨かれてゆくために必要な過程であって、闘争だけが存在するものではありません。何のために闘争(切磋琢磨)が生じているのかを見失わない事も大切でしょう。

 良い金属は良い鉱脈(地)から産出されます。荒削りな思いはそれだけ練成の過程が多くなりますし、良い鉱脈から取られた鉱石は少しの練成で形になるでしょう。

 同じように、私たちの思いに間違いが多ければ、それだけ受け取る苦痛も増えてゆくことになります。

 

 金の気は十干(じゅっかん)では陽の金・庚(こう)と陰の金・辛(しん)に分けられます。庚は大地から産出されたばかりの鉱石を示し、辛は練成され磨かれた玉を表します。

 鉱石は叩かれ磨かれて、いずれ「珠玉」になってゆく訳ですが、辛は信仰とか修練・修行などの「求道心」を表しています。仮に珠玉となったとしても「珠(たま)も磨かねば光らず」となってしまいます。

 思いを形にする道は果てしなく続く道でもあるのでしょう。珠を磨くとはまさに御魂磨きである訳ですね。

 

 面白いことに金の気は私たちの「肺臓」と深く関係しています。つまり呼吸は練成の具合を計る道標という事になります。修練には呼吸が大切ということですね(^^)

 

 今回で五行の説明は大まかですが終わりましたので、次からはカテゴリ別に

木象には愛に関すること、

火象には知識的なこととか、神様に関すること。

土象には信念・信仰に関すること。

金象には実践的なこととか行動面でのこと

水象には感情や知恵、あるいは霊的なことを書いてゆければと思います。

 

 易に学ぶの方へも、易の64卦を応用して随時記事をアップしてゆく予定ですので、宜しくお願い致します。

 

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ
2007/05/14 00:18|山術房:心行TB:0CM:6
 

喉の渇きを潤す水になる 

 さて今回は五行における『』の象です。水は一般に困難や悩みを示す五行として知られています。といいますのは水のもつ「高きから引くきに流れる性質」によるところが大きいのです。

 水は低いところ、低いところを目指して流れます。それは最終的に「穴に入る」ことであり、穴は「暗く」沈んだ場所という意味からきています。それが困難や苦悩というイメージと結びつくのでしょう。

 しかし、水そのものは決して「穴」ではありません。命を潤すものであります。それ故に水は「木」を育てるのですから。

 自ら赴いて穴に満ちる。。。それが水の性質です。それ故に『水』は「情け」という意味を持つのでしょう。

「情け」と「仁愛」とどこが違うのかと思われる方もいるでしょうが、穴に入り込んだ水は人目に触れることがありません。それは深く隠れたままになっています。それ故に水には「隠れる」「秘密」という意味があります。言ってみればここで言う水とは「地下水」の事と考えて頂ければ解りやすいでしょう。

 隠れた水を吸い出すのは木の役目です。木は水を吸い上げて葉を茂らせ、果実を実らせます。そのようにして初めて水は形として表れます。ですから「仁」は形になった「情」だと言う事ができます。

 この情はまた「感情」の「情」でもあります。私たちは時折り感情を表に出す事を嫌います。素直に感情を表に出すと、我が儘というレッテルを貼られてしまうことも少なくありません。まさに水の「隠れる」という象が影響しています。

 そして、それ故に、私たちは感情を見せないように努めてしまいます。しかし、それは情を深く隠すに似て、木の根も届かぬほど地下深く流れてしまっては、木々を育てる事は叶いません。

 私たちが時々、自分には愛がないと感じる理由の一つです。

 もちろん、地下水をどんどん汲み上げて垂れ流したら、きっと洪水になってしまうでしょう。それが解っているだけに、人は感情を外に出すのを嫌うのかもしれません。けれど、水が無ければ命が育たないのも事実でしょう。

 必要なのは、状況に合わせて必要な水をくみ出す事だと思います。そのための一歩は批判を恐れずに感情を出して見る事。。。それが必要です。どの程度出せば洪水が起きるのかを知らなければ、ただただ抑圧する事だけに奔走するしかありません。

 けれど感情を表に出して周囲との関係が解れば、どの程度出せばいいのか、あるいはどのように出せば良いのかが学べます。こうした体験が知恵を生んでゆきます。それ故に水は「知恵」という意味を持っています。

 火の「知」はどちらかというと学問的な「知識」ですが、水の「知」は生きる為の「知恵」となります。

 雨は各所に降って、低いところを目指して進みます。いずれ小さな水の流れも合流して交わり、大河となってゆきます。そこから水には「交わり」という意味が出来ます。

 従って人と人との交わりも水の象なのです。人と人との交わりがしばしば悩みの種になるのも水の質と言えましょう。けれど、それは知恵の始まりでもあるということです。

 雨雲となって天に留まり、達観できる知恵と、低い地に下りて人と交わる事ができる知恵、、、これが水の姿です。それ故にしばしば水は「」にも例えられます。

 自由奔放な天の世界から、暗く狭い穴の世界に下って命を育むのですから、この「情」がいかに深いものか解ります。

 そして、その情が私たち人間の誰の中にも、地下水の如く秘められている事を忘れずにいて欲しいと思います。

 秘められ、自由に形を変える水は、しばしば「」に例えられます。天にあった霊が地に降りて流れになる。。。そして、また天に帰る姿はまさに霊そのものといえるでしょう。

 その霊が吸い上げられ宿るところが「木」即ち生きる私達という訳です。だから、誰の中にも深い情があることに違いはありません。恐れずに汲み上げてみてください。

 あなたという水はきっと多くの人の喉を潤す事でしょう。。。

 けれども、誰も、泥水はすすりたくはないはずです。あなたが誰かの喉を潤すためには、あなたは澄んだ自分でいなければなりません。

 コンコンと湧き出る水も、かき回せば濁ります。けれども、濁った水もしばらくそっとしておけばまた澄んで来ます。ここに水の知恵があります。

 日々の出来事に反応し続けるのは、かき回されて濁った水になるのと同じです。けれども、心を落ち着けて、些細な事に反応する事をやめるなら、あなたはいつでも澄んだ水でいることができます。

 水場には多くの生き物が寄ってきます。それは、あなたが澄んだ時、あなたが必要とする全てのものが、向こうから来てくれるのに似ています。

 もし、あなたが、あなたという水を与えなければ、動物たちも近寄らないでしょう。その事は全ての事が「与える事から始まる」と教えているかのようです。

 あなたも、どうか井戸を掘り当ててください。あなたという心を奥深く掘り進んで、コンコンと尽きる事のない清涼たる井戸水を見つけてください。あなたが掘り当てるべき井戸は、今もあなたの中に隠れたままになっていますから。。。

 だから外ではなく、内に向かって下さい。そこには尽きる事のない知恵が湧いているでしょう。

 

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ
2007/05/12 02:53|山術房:心行TB:0CM:6
 

初夏 

 今日は所用があって十和田湖方面へと行って来ました。八甲田の山々にはまだまだ残雪が残っております。それでも今年は例年に比べだいぶ少ないのです。(携帯で撮った写真なので見辛いのですが。。。)

070510_1058~01.jpg

 写真には写っていませんが、ようやく出始めた岳樺の新芽がとても綺麗でした。夏が近付くと生命力に溢れる緑に変わりますが、私はこの時期の新緑が一番美しいのではないかといつも思います。

 道路脇には雪の回廊が2mほど残っていました。雪国にはまだまだ初夏と呼ぶには遠いのですが。。。この残雪で冷やされた空気が吹き降ろしとなって県南地方には「やませ」が吹きます。そのおかげで真夏でも肌寒い風が吹く事があります。

 雪は水卦(坎かん)、山は山卦(艮ごん)で水山蹇(すいざんけん)の卦です。「蹇」は足萎えという意味で、前には大河、後ろには険しい山。。。進むにも進めず、引くにも引けず。。。という意味の卦です。

 この近くには「八甲田山」という映画でも有名になった青森第五連隊の雪中行軍最後の場所があります。。。まさに「蹇」の卦を示すような事件でした。。。

 

070510_1312~01.jpg

 倒れた老木にキノコが出ていました。サルノコシカケの仲間でしょうか。。。奥にある川は奥入瀬渓流です。

 奥に水、手前に木なので「水風井(すいふうせい)」の卦です。井戸という意味の卦ですが、井戸の水は汲み上げ続けなければ腐ってしまいます。易経には都は遷せても井戸は遷せないと書かれています。

 自然の恵みは私心でどうこうできるものではありません。今の場所をじっと守って倦まず弛まず汲み上げ続けてこそ清涼な水の恵みが人の喉の乾きを潤します。。。そんな思いのワンカットです。

 大樹は倒れて尚、命を育むのですね。。。

 

070510_1350~01.jpg

 十和田湖の全景、いえ半景です。携帯で全景の撮影は無理でした^^;

 窪み(沢)に水が満面に湛えられています。水沢節(すいたくせつ)の卦です。節は節度・節制・節義の節です。

 元々は竹の節という意味の卦なのですが、何事も節目を作ることの大切さを説いた卦です。私はこの卦がとても好きなのですが、この卦を見ると仏教の「四諦(苦集滅道)」を思い出します。

 水は困難・苦しみを表します。それを一つ所に集めたのがこの卦に相当するように思えるからです。節度節制を保つ事で苦そのものをコントロールしていますので、苦しみとなる原因を集めて滅している状態です。

 凪いだ湖面は鏡のように静まって、苦も大人しくなっています。明鏡止水、、、こんな心境でいつもいられたらと思います。

 そういえば「かがみ」という言葉は「かみ」の真ん中に「が(我)」が入った状態だと聞いた事があります。明鏡止水の鏡のような心がきっと、神様と一つとなった神人合一の境地なのかもしれません。。。

 

070510_1418~01.jpg

 十和田青龍神社の参道です。若い御夫婦家族が参拝しておりました。

 奥に見える白い鳥居を上ったところに本殿があります。私も参詣をしておりますと、後から中学生の女の子でしょうか、、、を連れたお婆さんが参拝に来られました。

 お婆さんがおみくじを引こうとすると、その女の子が嗜めます。おみくじはそんなに頻繁に引くものではないと言うのです。おみくじは神様の言葉だから年に一度頂ければ十分、何度も聞き返すのは失礼だというのです。だから初詣で御神籤を頂いたから、今は引く必要はないと。。。まあ、口調はもう少し荒かったのですが^^;

 けれども、端で聞いていてなるほど的を得ていると感心致しました。おばあさんに対する言葉遣いには苦笑しましたが、なかなか信心深い娘さんです。

 この神社は私も大好きな神社の一つなのですが、龍神様もさぞ苦笑されている事だろうと思ってしまいました。

 今ではここに鎮座される龍神様ですが、元々は私の自宅の近くが故郷です。私の家の近くには川がありますが、そこが手狭になられたために、十和田湖に移ったと言い伝えられています。その様な事もあってなかなか親しみを感じているのですが。。。

 

 ところで十和田湖は御存知のように屈指のカルデラ湖で元々は大きな山でした。数万年前には10〜20万メートルの高さがあっただろうといわれています。

 10万メートルでも大変な高さですが、20万メートルもあったとしたらどれほどの高さだろうと思います。仮に10万メートルの高さだったとしても、静岡辺りからでも見る事が出来たといいますから想像を絶する高さです。

 かぐや姫の物語に東の海の真ん中(だったかな?)にある渤海というところには蓬莱山(ほうらいやま)という孤峰がそびえていたと伝えられています。(蓬莱山の出典は元々は中国です)

 まあ、数万年前に火山の爆発でなくなった十和田のお山ですので、その様な物語に残っているはずもないのですが、もしかしたら十和田のお山が蓬莱山ではないかと空想するとなかなか感慨深い気も致します。20万メートルもあったとしたら、中国からでもはっきりと見えたことでしょうから。。。

 

 そびえ立つ山は誰もが振り向き仰ぎ見ます。私もその様な山を目指して精進精進。。。と、心の中で大十和田山を思い浮かべてみた。そんな一日でした。。。

 

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ
2007/05/11 00:50|外人(そとじん)TB:0CM:12
 

人は愛(仁)である 

 木・火・土・金・水、、、という五行の流れの最初に来るのは『木』となります。これは『木気』が東に対応していて、占星術で言う春分点あるいはアセンダントの位置にあるからかもしれません。

 この木気は五行の中では唯一生命をもった五行で、これが最初に来るのも、その辺に理由があるのかもしれないと思うこともあります。もし、そうだとしたら陰陽五行の哲理は命あるものの道程をも示しているのかもしれません。

 

 木気は十干で言うとに当たります。甲は植物が種の堅い殻を破って今まさに芽を出そうとしている様子を描いた象形文字だといわれます。甲は堅い種から根っこが出た形で、上にも芽を出すと「申(伸びる)」になります。

 よく私たちは「自分の殻に閉じこもっていないで、、、」という事がありますが、その殻を破って伸び成長しようという姿がここにあります。

 でも、この甲の形から仁が伸び行くには順番があることがわかります。まず根を張ること、それからでないと上には延びては行けませんと教えている気がします。

 根を伸ばすのはもちろん大地ですから、大地の象徴する母の心。慈しみ育てる母のような心、、、まず、ここに根っこを張りなさいと教えています。しっかりと根を張れば、木々はそれだけ高く伸び行く事ができるのです。

 

 甲は陽の木で言ってみれば大樹を象徴しています。これに対して乙は陰の木で草花、つる草を象徴しています。甲は太陽を目指してすくすくと伸びてゆきますが、乙である蔓草は巻きつく大樹がなければ上に伸びてゆくことが出来ません。

 そこで甲と乙は夫(甲)に頼る妻(乙)に例えると解り易いかも知れません。そして夫婦の関係が「仁愛」の代表的な象徴だと考える事が出来るでしょう。

 

 孟氏は「仁者愛人」といいました。「仁の徳を備えた者は人を愛する」と。。。
 その「仁」は「人」という字と同義です。ですから読み替えれば「人は人を愛する」と読む事ができます。仁は「二人の人」と書きますから「愛し合う者が人である」と言っているようにも聞こえます。まあ、だから、愛情のかけらもない人を「人でなし」というのかもしれませんが^^;

 夫婦の事を「めおと」と言いますが、これは「妻夫・女夫(めおっと)」の事だと考えられます。でもここでは「芽(甲)乙」と考えたいですね。仁は上下のない二人ですから、甲乙つけ難くなくてはなりませんから(笑)

 

 ところで大樹は上へと伸びます。根っこもあるので上下に伸びることになります。一方で蔓草は支えになる大樹を得ないと地を這って横に伸びようとします。つまり甲と乙は上下左右、全ての方向へ伸び行くものです。

 唯一生命を持つ「木気」が全ての方向に伸び行くというのは、私たちの宇宙が生命で満ちている。あるいは生命そのものであることを示しているのだと思います。

 その「木」は「水」を吸って伸びてゆきます。陰陽五行では「水」は「情と知恵」を表します。命が伸び栄えるには「情(なさけ)と知恵」が必要になります。もちろん水だけでは木は伸びません。冬に成長する木がないのと同じで暖(火)が必要になります。

 つまり「温かい情けや知恵」が揃わないと「仁」は伸び行く事ができません。

 面白いことに五行説では「木」は「水」によって育てられ「火」を生み出します。その水と火はどちらも「知」を象徴しています。知恵ある情によって育まれた「木」は、いずれ自らも「知恵」を広めてゆくことになるのでしょう。

 

 孔子は「知者楽水、仁者楽山」といいました。文字通りに解する事もできますが、ここでは「水」は八卦の「坎(かん)」の事で、「山」は同じく八卦の「艮(ごん」の事と解釈しておこうと思います。

 その坎も艮も、困難を示す時によく使われます。

 坎(水)は、大河を目前にしてどう渡り行こうかと思い悩む象として。

 艮(山)は、連なる山々(問題)を前にして、どうやって乗り越えてゆこうかという意味として。

 だから本当の知者・仁者というのは諸々の困難を楽しめる人なのかもしれません。。。

 

 ところで木気は火を生じます。

 前記事でmoon7cさんから「そうすると、その人を思いやることができて、「礼」が尽くせる・・」というコメントを頂きました。

 この「思いやり」は仁の心ですから、礼を生じることになります。「思い」と「思いやり」ちょっとややこしいのですが「思い」には「思慮」という意味があります。ですから

 愛の心(思いやり・慈悲)を持つと相手を知ろう(火)という心の働きが出来てきます。知ることは尊重心(礼)を生みます。礼を尽くすために「思慮」が生まれますし、礼を尽くそうという「思い」が強まります。

 

 五行には象徴として色んな意味が持たされていますから、その組み合わせで幾通りにも考えることが出来ます。ですから、このように言い換えてもいいかもしれません。

 

「より良く生きようと(木)すると知識(火)が必要になります。知識は思慮(土)を深めます」。。。と。

 また木気は「志」を示し、火は情熱を示します。そして土を現実とすると。

「意志(木)は情熱(火)を生み、情熱は現実(土)を作る」

 と読み替えることも出来ます。

 また、この一文は次のように書くことも出来ます。

「意志(木)はエネルギー(火)を生み、エネルギーは物質(土)を生んだ」

 また木気は風(空気)を示し、火は血を示し、土は身体を示します。すると。。。

「呼吸(木)は血(火)を作り、血は身体(土)を作る」とも読めます。

 

 五行の象意をしっかりと掴んでおくと様々な応用が利きます。関心のある方は是非楽しんでみてください。その際には是非教えて頂けると、管理人は喜びます(笑)

 

人気blogランキングへ  FC2 Blog Rankingへ
2007/05/10 01:27|占術全般TB:0CM:6
 

より良い「思い」を創る為に 

 私たちの思い・信念は、私たちが想像している以上に、強い力を持っています。それだけに思いをどう扱うかとか、どのように昇華してゆくかはとても大切な問題となります。
 陰陽五行論では思いを象徴していた『土』は『火』によって生み出されると教えています。火が燃え上がり灰となって土に返るのがその姿という訳です。
 そこで『火』とは何ぞやという事を御説明致しましょう。

 火は「暖める」という役目の他に「照らす」という働きがあります。私たちは真っ暗闇の中では手探りで歩かなければなりません。躓いて転んだり、足をぶつけたりすることもあるでしょう。自分の周囲に何があるのか分かりませんから、時にはもっとひどい目にあうかもしれません。
 このような時「灯り」は、私たちの周りを照らして、自分の回りに何があるかを映し出します。

 つまり『火』には「明らかにする」という働きがあります。心の働きの中で「明らかにする」というのは「知性」の働きに相当します。ですから物事を「知」ることは、私たちの安全のためにも欠かせないものとなります。
 火は熱い、刃物は危ないと知らなければ、どんな事になるか想像が付きますよね。。。「明らかに知る(明智)・知性」という火の働きはそこから生じます。

 そしてまた『火』は私たちの「」を象徴する五行です。ですから「知性・知識」は「見る事」と同じという訳です。その『火』が『土』を生み出すとはどういうことでしょう。
 これは『日頃見ているもの(火)が思い(土)を生み出す』ということを示しています。

 よく子供は「教えた事はしないけれども、親がする通りの事をする」と言われます。子供は親のする事を良く見て(火)います。ああしなさい、こうしなさい。。。というのはなかなか子供の思いを形成しませんが、親が日頃子供に見せている姿は子供の思いを作り上げてしまうという事なのです。
 だから、子供に勉強して欲しかったら親が勉強している姿を見せる事。。。人に優しくする子になって欲しかったら、親が老人に席を譲る習慣を身に付け