スピリチュアリズム。。。Spiritual はラテン語の Spiritus(霊性) が語源となっている。確かこの単語には「息吹・風」という古い意味があり、旧約聖書・創世記第二章第七節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」に対応している。
だから Spirit(精神)として使われるこの単語の本来の意味は、神から受け継いだ霊性(精神)という意味合いが込められている。Spiritを「魂」と訳す向きもあるようだが、厳密には Spirit と対比する「魂」を意味する言葉は Anima という単語だった。ユング心理学で女性性を示す言葉として使われている名詞である。
このことから「精神」と「魂」は分けて捉えられていた事が解るが、その話題は本稿とは関係がないのでまたの機会に譲るとしよう。。。
また、この Spiritus はヘブル語のルーアハ(風・息吹・霊)に相当するが、創世記の冒頭第一章第二節に出てくる「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」の神の霊の事である。
旧約聖書のヨブ記第七章七節「忘れないでください わたしの命は風にすぎないことを。」の風という具合に用いられている。
このような原義に立ち返るとスピリチュアリズムが本来は霊性の向上とか、神性の発見、あるいは仏教的に言うなら仏性に気付く事。。。といった意味になることは明白である。
もっとも Spiritus は、ドイツ語の Geist、フランス語の esprit となって霊魂とか幽霊を示す色あいが濃くなっているし、近代のスピリチュアリズムの発祥自体が心霊現象とか交霊会などが元になっているので、心霊主義となってゆくのだが。。。
とはいってもフランス語の esprit には知性とか心という意味もあるから、不可知なものであるとはいえ、やみくもに信じてみたり、雑多に受け入れてしまうのは、本来の意味からは大きく外れてしまうといって良いだろう。
私達の知性は相対的なものであるが、これは分類整理が基本になっていることは周知の通りだろう。それをまるで闇鍋のように扱ってしまったのでは、もはやスピリチュアリズムとは言い難い。科学などで研究され実証されているような内容まで、鍋の中に放り込むような真似は、知性の退行としか言いようがないのではあるまいか。。。
こうした霊性は知性では推し量れないものとされてはいるが、それは知性を必要としないという意味では決してないし、私自身の体験的なことを述べれば、知性で知りえる事を知性に任せた時、ようやく見えてくるものだと思う。
だからソクラテスの言った「無知の知」とは、知性で知り得るものは知性に任せ、それでもどうしても知性では推し量れないものが出てきたときに、霊性の断片が見えてくるという意味合いがあったのではないかと思う。実際にこうした傾向は一事に専念した著名な研究者達がよく言及することでもある。
まあ、それを思考停止と称して批判する向きもあるが、現状で私は知りえない事と認識する事が思考停止とは少々強引に過ぎるだろう。
いずれにしても、このような意味合いでスピリチュアリズムを捉えている私としては、勉強不足等を棚に上げて、自分が理解できない事を全てスピリチュアルとしてしまう風潮は、はなはだ心外である。
少なくとも、何でも不思議がったり崇拝する前に、最低限度、論理的な考察を重ねる努力くらいはするべきだろう。その程度の努力すらせずに愛だの許しだのと連呼されても、私には自己逃避か自己弁護にしか見えない。
霊性とか神性といったものは不可視・不可知なものであるのだから、一つ一つを手探り状態で進むしかない。それだけに妙な思い込みや決め付けは道を誤る大きな原因になってしまうし、忍耐心に欠けたのでは、答えを目前にして放棄してしまうことにもなるだろう。
残念なことに、こうした人達は口をそろえて、このように言うものだ。「その方法は正しくない。私も試したが何も得るものはなかった」と。。。もちろん、その人にとって、それは事実だろうが、到達点を明確に知らない私たちには、しばしば起こりえる事だということも理解しておくべきである。本当は、その道は正しい道だったかもしれないのだから。。。
従って、こうした事には忍耐心と中立な思考が何よりも大事だし、継続された努力が要求される事になる。
霊性探求の道は、しばしば登山にたとえられるが、山に登ろうとするなら、まず山の裾野まで行かなければならない。賢明な探求者は、その裾野まで歩く事を厭わない。ところが、私の印象ではどうも、裾野まで車で一気に行ってしまおうとする人が多すぎる。
便利なのは解るが、それで山に登り始めると、険しい山道についていく体力も無く引き返すか、遭難するかしかなくなるだろう。裾野までの長い道のりを歩いて来た人のみが、十分な体力を養い登り切る事が可能となる。これはとても重大な事である。
そしてその裾野までの道のりとは、私達の日々の生活に他ならない。人生を十分に生きた人のみが、登頂を可能とするものだ。もちろん十分に人生を生きるとは年輪の話ではないが。裾野までの途中の旅路を放棄して、その大変さを知らない、あるいは知ろうともせずに、愛だ、許しだ、霊性だとどうして言えるのか私には理解できない。。。
道中の苦しみや、困難を体験せずに、どうしてそれを理解する事ができるだろう?理解なき愛や許しが、そうした方々の言う愛や許しなのだろうか?
高い山に登ろうとすれば、それだけ裾野までの距離も遠いという事を理解しておくべきだと思う。
さて、随分と批判めいた事を書いてきたかもしれないが、私自身はエンターテイメント的なスピリチュアルを否定するものではない。それは私の中でエンターテイメントとして明確に区分されているからで、それらは楽しむ目的の中にあるものだから。。。
また、実際問題として、スピリチュアルの分野とされるものの中には、真摯に探求されている牽引者がいること理解しているつもりである。エンターテイメント的なスピリチュアルとはいっても、それを縁に道の方へと来られる人もいるに違いないから。。。
だからスピリチュアリズムを道として捉えるか、エンターテイメントとして捉えるかは個々人の自由とするところで構わない。切に願うのは、線引きを明確に認識しておいて欲しいという点になるだろう。。「その方法は正しくない。私も試したが何も得るものはなかった」っと、簡単に言って欲しくないと思うゆえである。
|