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趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

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Author:やわたうま
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日本と古代ヘブライの共通点メモ 

 今回はロウワイズさんの所(大樹の下で)で、日ユ同祖論が出ましたので、妄想思索の一助のための覚書です。関心のある方は是非ご参加下さい(笑)

神武東征と十支族

10支族がサマリアを出て、すぐ後に神武東征が開始された事になっている。

※「サマリア」とは北イスラエル王国の首都

古代ユダヤ人の風貌

薄黒い肌、黒髪、そして黒い目をしていて、背が低かった。

ヘブライ人と日本男性のY染色体は同じ大きさで、他にはみられない。

日本に残るヘブル語

大化の改新 : 大化は古語で「タイクワ」と読む。これはヘブライ語で「希望」の意。

アガタヌシ : 「集団の長」の意。

ミヤツコ : 「代表者」の意。

葦原 : 「カナン」は「CNNE-NAA」の合成語で、ヘブル語では葦原の意。

みずほ : ヘブル語の「ミズホラ」は「東方の日出づる国」の意。

ヤマト : ヘブル語アラム方言では「ヤ・ウマト」は「神の民」という意味。

祭 : ヘブライ語の「マソリット」は「伝統」の意。

鳥居 : ヘブル語で「門」の意。

アメノコヤネ : ヘブル語の「コハノ」は「司祭」を意味する。

ミカド : ヘブル語では「ガド族出身の者」の意。

スメラミコト : ヘブル語で「サマリアの陛下」の意。

カム・ヤマト・イワレ・ビコ : 「神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味

日本 : ガド族の始祖ガドの長男の名前は「ニェポン」であったという。

祇園 : ギオンはシオンの転訛である。祇園祭は7月17日に行われるが、ノアの洪水が終わった日が7月17日だった。この日はユダヤでもシオン(ZION)祭が行われる。また祇園祭の山車の模様はユダヤのタペストリーと酷似している。

思想(神話)的な一致

・崇神天皇とダビデ王、垂仁天皇とソロモン王、仲夏天皇とサウル王は、業績が共通している。

・アダムとイヴが結ばれる前、アダムは女神リリスと結婚いたという伝説があるが、リリスは、その時八万の神を生んでいる。

祭祀・習俗的な一致

過越祭(ペサハ) : ヘブル暦8ヵ月目の15日に過越しの祝いをしたが、日本の神社では8月15日に「古代の解放の祭り」を行なう。でも、他民族に征服されたことのない古代日本人が、なぜ、"解放の祭り"をする必要があるか?

 過越祭は七日間と規定されているが、ユダヤの一日は夕方から始まるので、実質八日間となる。これは大晦日から七草までの期間と同じ。

 旧暦の8月15日は観月(月見)にあたる。

 

皇紀 : 皇紀は紀元前660年から始まるが、これは北イスラエル王国が滅ぼされた直後の時期に当たる。また神武天皇の誕生はBC711年で、北イスラエル滅亡から11年後にあたる。

 

伊勢神宮のカゴメ紋

 

鏡餅 : 過越祭の日に限って「種なしのパン(マッツォ)」を食べる。この種なしパンは日本の「餅(モチ)」と同じもの。ユダヤ人は丸く平べったい種なしパンを祭壇の両脇に重ねて供えるが、これは日本の「鏡もち」と全く同じ。

 

神社の作り : 古代ヘブライの幕屋と神社の作りは、驚くほど酷似している。

 

狛犬 : ダビデの王統、ユダ族のシンボルはライオンである。

 

兜巾(ときん) : 山伏が着ける兜巾と、「ヒラクティリー」は同じもの。

 

ほら貝 : ヘブル人は祭の時、羊の角で作った「ショーファー」を吹く。

 

神主の正装 : 古代へブル人祭司(レビ族)の正装と全く同じ。

 

神輿 : アークの箱の酷似。アークの箱では鳳凰の変わりにケルビムが飾られている。

 

八咫の鏡 : 誰も見たことがないとされる鏡だが、ヘブル語学者の左近博士が一度宮中に呼ばれたことがあり、八咫の鏡の裏には、ヘブル語で「私は『私は在る』というものである」と書かれていたと証言している。

 

伊勢神宮の暦 : ヘブライの暦と同じ。

 

元伊勢 : 元伊勢の「籠(この)神社」の裏家紋は六芒星である。

 

元服 : 元服は13歳に行われたが、ヘブライでも13歳で成人を迎える儀式「バル・ミツバ」を行なう。

 

禊ぎ : 水や塩で身を清める「みそぎ」の習慣がある。またヘブライ人は食事の前、トイレのあと、教会の入り口で手を洗う習慣がある。更に、アダムとイブがエデンの園を追放された時、神の許しを請うためにヨルダン川で禊ぎをしている。イブは37日間、アダムは40日間であったが、18日目にサタンが天使に化けてイブを騙し、神がお許しになったと禊ぎを止めさせてしまう。これは伊邪那岐、伊邪那美の故事に酷似している。伊邪那美は黄泉の国の住人になっているが。。。

 

入浴 : ヘブライ人は、先に身体を洗ってから風呂に入る。

 

相撲 : 天使と相撲をとりヤコブが勝ったのでイスラエル(神の戦士)という名をもらった。日本では天手力男が相撲の元祖といわれる。

 

菊花紋 : シナゴーグ(ユダヤ教の教会)には必ず菊の紋章がある。エルサレム神殿の門にもある。

 

お守り : ユダヤの護符(メズサ)との酷似。

2007/10/30 17:28|古代妄想TB:1CM:6
 

最近のスピリチュアル事情No2 

 スピリチュアリズム。。。Spiritual はラテン語の Spiritus(霊性) が語源となっている。確かこの単語には「息吹・風」という古い意味があり、旧約聖書・創世記第二章第七節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」に対応している。

 だから Spirit(精神)として使われるこの単語の本来の意味は、神から受け継いだ霊性(精神)という意味合いが込められている。Spiritを「魂」と訳す向きもあるようだが、厳密には Spirit と対比する「魂」を意味する言葉は Anima という単語だった。ユング心理学で女性性を示す言葉として使われている名詞である。

 このことから「精神」と「魂」は分けて捉えられていた事が解るが、その話題は本稿とは関係がないのでまたの機会に譲るとしよう。。。

 

 また、この Spiritus はヘブル語のルーアハ(風・息吹・霊)に相当するが、創世記の冒頭第一章第二節に出てくる「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」の神の霊の事である。

 旧約聖書のヨブ記第七章七節「忘れないでください わたしの命は風にすぎないことを。」の風という具合に用いられている。

 

 このような原義に立ち返るとスピリチュアリズムが本来は霊性の向上とか、神性の発見、あるいは仏教的に言うなら仏性に気付く事。。。といった意味になることは明白である。

 もっとも Spiritus は、ドイツ語の Geist、フランス語の esprit となって霊魂とか幽霊を示す色あいが濃くなっているし、近代のスピリチュアリズムの発祥自体が心霊現象とか交霊会などが元になっているので、心霊主義となってゆくのだが。。。

 とはいってもフランス語の esprit には知性とか心という意味もあるから、不可知なものであるとはいえ、やみくもに信じてみたり、雑多に受け入れてしまうのは、本来の意味からは大きく外れてしまうといって良いだろう。

 

 私達の知性は相対的なものであるが、これは分類整理が基本になっていることは周知の通りだろう。それをまるで闇鍋のように扱ってしまったのでは、もはやスピリチュアリズムとは言い難い。科学などで研究され実証されているような内容まで、鍋の中に放り込むような真似は、知性の退行としか言いようがないのではあるまいか。。。

 こうした霊性は知性では推し量れないものとされてはいるが、それは知性を必要としないという意味では決してないし、私自身の体験的なことを述べれば、知性で知りえる事を知性に任せた時、ようやく見えてくるものだと思う。

 だからソクラテスの言った「無知の知」とは、知性で知り得るものは知性に任せ、それでもどうしても知性では推し量れないものが出てきたときに、霊性の断片が見えてくるという意味合いがあったのではないかと思う。実際にこうした傾向は一事に専念した著名な研究者達がよく言及することでもある。

 まあ、それを思考停止と称して批判する向きもあるが、現状で私は知りえない事と認識する事が思考停止とは少々強引に過ぎるだろう。

 

 いずれにしても、このような意味合いでスピリチュアリズムを捉えている私としては、勉強不足等を棚に上げて、自分が理解できない事を全てスピリチュアルとしてしまう風潮は、はなはだ心外である。

 少なくとも、何でも不思議がったり崇拝する前に、最低限度、論理的な考察を重ねる努力くらいはするべきだろう。その程度の努力すらせずに愛だの許しだのと連呼されても、私には自己逃避か自己弁護にしか見えない。

 

 霊性とか神性といったものは不可視・不可知なものであるのだから、一つ一つを手探り状態で進むしかない。それだけに妙な思い込みや決め付けは道を誤る大きな原因になってしまうし、忍耐心に欠けたのでは、答えを目前にして放棄してしまうことにもなるだろう。

 残念なことに、こうした人達は口をそろえて、このように言うものだ。「その方法は正しくない。私も試したが何も得るものはなかった」と。。。もちろん、その人にとって、それは事実だろうが、到達点を明確に知らない私たちには、しばしば起こりえる事だということも理解しておくべきである。本当は、その道は正しい道だったかもしれないのだから。。。

 従って、こうした事には忍耐心と中立な思考が何よりも大事だし、継続された努力が要求される事になる。

 

 霊性探求の道は、しばしば登山にたとえられるが、山に登ろうとするなら、まず山の裾野まで行かなければならない。賢明な探求者は、その裾野まで歩く事を厭わない。ところが、私の印象ではどうも、裾野まで車で一気に行ってしまおうとする人が多すぎる。

 便利なのは解るが、それで山に登り始めると、険しい山道についていく体力も無く引き返すか、遭難するかしかなくなるだろう。裾野までの長い道のりを歩いて来た人のみが、十分な体力を養い登り切る事が可能となる。これはとても重大な事である。

 そしてその裾野までの道のりとは、私達の日々の生活に他ならない。人生を十分に生きた人のみが、登頂を可能とするものだ。もちろん十分に人生を生きるとは年輪の話ではないが。裾野までの途中の旅路を放棄して、その大変さを知らない、あるいは知ろうともせずに、愛だ、許しだ、霊性だとどうして言えるのか私には理解できない。。。

 道中の苦しみや、困難を体験せずに、どうしてそれを理解する事ができるだろう?理解なき愛や許しが、そうした方々の言う愛や許しなのだろうか?

 高い山に登ろうとすれば、それだけ裾野までの距離も遠いという事を理解しておくべきだと思う。

 

 さて、随分と批判めいた事を書いてきたかもしれないが、私自身はエンターテイメント的なスピリチュアルを否定するものではない。それは私の中でエンターテイメントとして明確に区分されているからで、それらは楽しむ目的の中にあるものだから。。。

 また、実際問題として、スピリチュアルの分野とされるものの中には、真摯に探求されている牽引者がいること理解しているつもりである。エンターテイメント的なスピリチュアルとはいっても、それを縁に道の方へと来られる人もいるに違いないから。。。

 だからスピリチュアリズムを道として捉えるか、エンターテイメントとして捉えるかは個々人の自由とするところで構わない。切に願うのは、線引きを明確に認識しておいて欲しいという点になるだろう。。「その方法は正しくない。私も試したが何も得るものはなかった」っと、簡単に言って欲しくないと思うゆえである。

 

2007/10/26 12:39|心象房:霊学TB:0CM:6
 

最近のスピリチュアル事情No1^^; 

 moon7cさんから貴重な御質問を頂き、早速書き始めたのだが、予想通りとても厳しい内容になってしまった。いきなりこれは出せそうにないと気を取り直し、何かきっかけがないものかとスピリチュアルをWikしてみたら、私が想像していたより、ずっと多岐に渡っていて、思わず目が点になってしまった^^;

 取り敢えず「スピリチュアルとされる分野」を転記すると。。。

 

スピリチュアルとされる分野

音楽、ヨーガ、マクロビオティック、ボディーワーク(en)、マッサージ、LOHAS、サイキック、気功、波動、代替医療、オーラ、レイキ、スピリチュアルアート、占星術、魔法、ドルフィン・スイム、風水、野口整体、ハワイアンカルチャー、パワーストーン、オーラソーマ、ヒプノセラピー、ホメオパシー、フラワーエッセンス、ネイティブスピリット、ヒーラー、チャネリング、アロマセラピー、ヒーリング、パワースポット(聖地)、アイヌ・沖縄人文化、神道など。

となっている。。。^^;

 なんか知らない単語もかなりある。私がスピリチュアルに関心を持ったときは、せいぜい音楽、ヨーガ、サイキック、気功、波動、代替療法、オーラ、ホメオパシー、魔法、くらいかな。。。けど、何故、心霊関係が無いのだろう?近代スピリチュアリズムは元々そこから始まったはずなのだけれど。。。^^;

 

 それにしても、魔術などと象徴的に結びついた歴史を持つ占星術は多少理解できるとしても、何故に風水がスピリチュアルなのか理解できない^^;

 それにホメオパシーも元来は免疫療法みたいなはずだったような。。。今では疑似科学に違いはないだろうけれど。。。当初はドイツの医師によって提起された医療方法であったはず。。。となると新説の医療方法はみんなスピリチュアルなのか。。。

 しかもマッサージまで何故にスピリチュアル?マッサージで血行が良くなると心霊現象が起きるのかな?

 ウパニシャッドまでスピリチュアルだとは。。。だったら西洋医学以外の医療もスピリチュアルなのか?つばつけときゃ治る!もスピリチュアルだとは知らなかった。。。^^;

 

 もしかして、科学的根拠のないものは全てスピリチュアルの分野に入れられているのだろうか?

 だとしたらネイティブスピリットやアイヌ・沖縄文化、ハワイアンカルチャーが何故入るのだろう?これって差別用語になってしまうのではないのか?民族的な人生観や文化をスピリチュアルという分野に入れても構わないのだろうか?

 となると文化人類学とか民俗学という学問はスピリチュアルだったのか。。。^^;

 

 音楽の項を見たら、賛美歌やゴスペルまでスピリチュアル?じゃあ、宗教音楽は全部スピリチュアルなのかな?

 あっ?もしかして、音階を作ったのがピタゴラス教団なんていう怪しげな教団を作っていたピタゴラスだからか?だとしたら音楽はみんなスピリチュアルなんだ。。。それなら数学や幾何学なんかもきっとスピリチュアルだな。。。^^;

 

 近代スピリチュアルが起こった時に、神道思想が積極的に取り入れられた経緯はあるが、それなら宗教はみんなスピリチュアルになってもおかしくないな。。。まあ、一応宗教の目的は霊性の向上ではあるだろうけれど。。。信仰を持たない宗教というのもおかしな話だ。。。^^;

 

 イルカと泳ぐ事がスピリチュアルなら、何故に犬や猫と遊ぶのはスピリチュアルじゃないんだろう?というか、これってアニマルセラピーというれっきとした心理療法じゃなかったっけ^^;

 ということは心理学もスピリチュアルなのか。。。

 

 スピリチュアルアートと普通の?アートは何処が違うんだろう?もしかして、スピリチュアルアートって自動書記で描かれた絵の事か?

 

 なんか、、、ため息しか出てこない。スピリチュアルは霊性の向上が目的だと思うので、それをもたらすものは全てスピリチュアルだといっても良いのでは、、、と、書こうと思ったのだけれど、、、まあ、確かに全部入っていますわね^^;

 moon7cさんのお気持ちが良くわかりました。。。 次回、真面目にお返事しますね^^;

 

2007/10/25 01:57|心象房:霊学TB:0CM:8
 

礼儀作法から鎮魂まで 

 昨日から今日にかけて神道の研修に行って来た。本当なら二泊三日の研修なのだが、明日は仕事もあるのでそうも行かない。。。明日の日程はキャンセルし、本日の日程分を終えて先ほど帰宅したところだ。

 けれど、何故に自分が神道の研修を受ける羽目になったのか、とんと合点が行かない^^;

 研修先で知り合った、私よりも少し若いくらいの人が同じ事を言っていた。

「気が付いたらここにいるんだよねぇ〜(笑)」

 

 二日間、朝から晩まで正座で過ごす。。。正座は嫌いではなかったが、若い頃に痛めた左腿の付け根と左足首が痛むため、最近は思うように胡坐も組めない有様だ。だから中々の苦痛だった。私には十分すぎるほどの苦行である(笑)

 うん十年と、この研修生活を続けてきた方々に混じって、何故自分が、ここにいるのかすら理解していないような輩が一緒に研修を受けたのだから、皆様には、さぞご迷惑のかけ放題だったに違いない。きっと神々様への失礼も相当にあっただろう。。。^^;

 それでも、普段礼儀作法などとはとんと縁のない自分なだけに、このような時間は心理的にも良い刺激になる。

 

 日本人の霊魂観は仏教のそれにだいぶ影響を受けているが、古来からの霊魂観として教えて頂いたことはなるほどと共感するところも多かった。

 逝去すると人の魂は山の裾野に留まるらしい。それが子孫の「祭」で浄化されるに従って山の頂へと登って行く。そうした祖霊の山々が、こちらでは「森山」と呼ばれているとの事。

 「モリ」という名が、かすかな記憶では確かヘブル語にもあったような気がするのだが、はっきりとは思い出せず少しもどかしくはあったが。。。

 更に浄化された祖霊の魂はより高い山へと移り行く事になるらしい。

 

 とすると、と、ふと思った事は、日本古来の風水思想、「イヤシロチ」と「ケガレチ」のことだった。

 イヤシロチとは山と山の頂を結んだ線上にある地で、ケガレチとは谷(山と山の間の低地の事)を結んだ線上にある地の事である。

 未浄化の御霊が山の低い所に留まるのなら、それらを結んだ線上は未だ浄化に達していない魂たちのエネルギーが色濃いという事なのかもしれないと感じた。

 少しは占いに関心があり、イヤシロチとケガレチがどうしてそうなるのだろう?と、長らく思ってきた答えが、そこにあるのかもしれない。。。

 

 初日の夕食を終えた後、鎮魂の修法の研修と相成ったが、この修法に際しては「ひふみの祓詞」を奏上する事になる。鎮魂の修法があるとはつゆ知らずに出発したのだが、前日とある方と「ひふみの祓詞」の意味について話していたところだったから、このシンクロも中々楽しい思いをした(笑)

 ひふみの祓詞とは

ひふみよいむなやこと もちろらね
 しきるゆゐつ わぬそをたはくめか
 うおゑにさりへて のますあせえほれけ(ん)」

というもので、魂振をしつつ奏上してゆく。

 この祓詞は、天照大神様が岩戸隠れをした際、天照大神様を岩戸から誘い出す時に、藤原家の祖神、天小屋根尊が奏上したものといわれる。

 

 日本語で読めば、

一(ひと)二(ふた)三(みつ)四(よつ)五(いつ)六(むつ)七(なな)八(やつ)九(ここの)十(とお)

と、数を読んだ祝詞だが、実はこの祝詞はへブル語で読めるらしく、その意味はこうなるらしい。。。

『誰がその美しい方を連れ出すのでしょう。彼女を誘い出すために、どんな言葉をかけるのでしょう。』
 嘘か本当か、まさに岩戸開きに際して奏上するに相応しい祝詞ではあるまいか。
 
 とまあ、こんな調子で過ごした二日間だったが、もう限界。。。寝ま〜す^^;
 
2007/10/21 23:14|心象房:霊学TB:0CM:6
 

存在しなさいNo2 

 先週末、80代のお婆さんの行方不明者が出て捜索隊が出動となった。幸い無事に発見されたのだが、この時期、こちらの夜は冷え込みも厳しい。高齢者の捜索は時間との勝負というところがあるから捜索隊も随分と緊張する。

 とうの本人が自分が何をしているか解らない状態なだけに、探す方も予測がつきにくいから、結局物量作戦だけが望みの綱になる事も多い。

 目撃情報をかき集め、警察犬や防災ヘリの出動要請など、数百人単位の捜索になるから、どうしても家族だけで探し出そうとする。気持ちは解るが、それが文字通り命取りになる事もあるから、早い決断が必要となる。

 探す方の家族はせいぜい60代くらい、探される方は80代。。。二〜三日は食べなくても大丈夫、、、などと、自分を基準に考えている訳にはいかないのだ。もし、かような事があった時は是非御注意下さい。。。

 

 ところで、今回も以下に存在すべきか。。。という事を考えてみる。

 私たちが存在するためには何もいらない。自分がどう在りたいか?それだけに集中すればよい。ある人はこういった。

 

 探求者には二種類ある。一つは『何をしたら良いか』を探す人で、二つ目は『如何に在るか』を探求する人だ。

 しかし、続けてその人はこう言う。何をするかは重要ではない。何をしたとしても、そこに分がいなければ意味がない、と。続けて、こうも言っている。何をしようと、全ては苦悩をもたらす、、、自分が存在しなければ、何をしようと誤りだ。。。とまで言い切る。

 

 従って、私達の道は二つある。行為の道と存在(瞑想)の道だと。

 行為をする事は、行為をしている人がいる。何をしようと行為はあなたから発する。だから裏を返せば、私達は常に行為者であり、何かをしていない時はない。

 行為の道が変えようとするのは、あなたの性格であり、考え方であり、対人関係とかであって、決してあなた自身ではない。この事を理解して初めて瞑想は意味のあるものになる。。。

 

 しかし、私達は、自分が存在すると思い込んでいる。何故だろう?

 あなたの肉体がそこに有り、何かを見て、聞いて感じている、何かがあるからだ。しかし、それで自分は本当に存在していると言えるのだろうか。。。?

 

 二十世紀最大のオカルティストといわれたグルジェフは弟子達にこういい続けた。。。

「人間に魂はない。魂とは単に一つの可能性だ。可能性というだけで、今あるとは限らない。それは達成するものだ。あなたは単に、その種子であるに過ぎない」

 

 講話者は言う。成長には二種類ある。一つは無意識的な成長で自然な成長だ。条件が整っていたら、それ(魂)は成長する。しかし、本当の自分(魂)の成長は、それとは全く違った種類の成長であり、自然(無意識的)な成長では育たない。。。

 

 さらに言う。。。知れば知るほど心は混乱する。知識を得れば得るほど、人は不確実になる。確実になれるのは愚者だけだ。愚者は決して躊躇しない。。。つまり、心が成長すればするほど混乱し、心の本性は混乱だと解る様になる。

 

 情報の氾濫している現代。現代人は過去の人々に比べれば、みんな知者だといっても良いだろう。それだから、現代は混乱の極みにあるのかもしれない。。。では、愚者になれば良いのだろうか。。。?

 多分そうではないだろう。知者であって、愚者のように振舞えるなら、それが良いに違いない。しかし、知者からも愚者からも離れているのが最も良い道だろう。

 講話者は魂と心の関係を、空と雲に喩えている。流れ、形を変え、ひと時も休まることなく動き続ける雲。。。それに比べ、空はいつも、如何なる時も変わることなく、その青さを広げている。空に境界がないように、魂には境界がない。。。

 

 嵐であろうと、吹雪であろうと、雲の上には何処までも空が広がっている。。。知者と愚者といった、あるいは右と左といった、相対の世界を離れなければ、その空が見える事はない。

 思考という雲と雲との狭間から見える空に、いつかは辿り着きたいものだ。私達は空を見ているだろうか?

 

2007/10/16 01:00|山術房:心行TB:0CM:4
 

見たいものしか見えない。。。とは。 

 現代の心理学や脳科学は、人の思惑によって人間が見たいものしか見えない事を明らかにしている。

 コロンブスがアメリカ大陸を発見した時、彼らが乗っていた舟が現地の人達には見えなかったという話は有名だ。彼らは巨大な舟を想像だにしたことがなかったからである。

 

 私は行った事はないが、山好きな仲間から、初めて行った日本人はマッターホルンが見えないのだと聞いた事がある。そのあまりにも巨大な威容は空一面に広がっていて、日本人はそんな巨大な山があることなど想像したことすらないからだそうだ。

 何度もガイドに指差され、目が慣れてきて、ようやく巨大なマッターホルンの全容に気付くらしい。

 

 御家庭の中でも、こうした事はしばしばあって、一時期一家の主がないがしろにされる問題がクローズアップされたが、嫌いとか、汚いとか、家族の者が嫌ううちに、本当にそのご主人は見えなくなってしまったという。

 勿論、ご主人はいつものようにそこにいるのだが、家族のご主人を蔑む気持ちが高じて、目には入っていても、脳の内部でご主人の姿を除外してしまうのである。

 

 ここまで来るとさすがに病的な問題であるが、こうした傾向は誰にでも起こっている。例えば失せ物を探していた時に、目の前にあるのに気が付かなかったなどという経験は恐らく誰にでもあるだろう。

 つまり、思い込みが見えているものを見えなくしてしまうということは、私達の間でも日常的に起こっていることなのだ。

 

 耳もそうで、人間の聴力は20Hz〜20000Hzといわれる。それより低い音や高い音はいわゆる超音波といわれ、人間の耳には聞こえないとされるが、その聞こえないはずの音が人間の無意識的な行動に影響する事は知られている。つまり、意識には上らないだけで、聞こえている訳だ。

 可視光線なども同様である。。。

 

 これを考え合わせると、何らかの思い込み?が、私達の聴覚範囲や視覚範囲を限定していると考えることは出来ないだろうか?

 少なくとも、私たちが持っている五官は、私たちが思っている以上に能力があることは確かだろう。しかしそれが、何らかの理由で限定されている。。。

 こうした事に注目したのがノストラダムス・ファクターと呼ばれるものだが、私達の意識に上らないが見たり感じたりしている情報の中には、未来の情報も含まれているという過程がなされている。

(ノストラダムス・ファクターはこちらに詳しい『ノストラダムス・ファクター―未来予知能力を目覚めさせる』)

 未来の情報を見てはいるが、見えないと思い込んでいるので認識できないというわけである。ある種の能力者は、このブレーキを外す事ができ、未来を垣間見たり、あるいは霊的な世界を垣間見ると言うわけだ。

 見たいものしか見えない、、、ということの中に、未来や霊界や、あるいは過去世界も含まれるという発想だ。みんなが、こうしたノストラダムスファクターに気付けば、占い師は商売上がったりだが。。。(爆)

 

 予言者になりたいとは思わないが、いわゆる虫の知らせ的な状態で、遠方にいる人の状況が何気なく解る時がある。それは時に便利で、時に不便なのだが、話を聞いていると、以外に多くの人が体験しているようだ。

 それでも、本人が全く気付いていないのは、やはり、解る訳がないと言う思い込みのようである。そんな風に意図的に思い込んだ訳ではないだろうが、いわゆる常識に従ううちに、本人も知らず知らずにその様な状態になっている。

 

 これと同じような事が、私達の心の内部でも起こっている。神聖な自分を感じられないとか、あるいは自分の中に在る愛を感じられないといった現象だ。

 超能力的な能力なら、あってもなくても大したことはないと思うが、神聖な自分や愛に気がつけないというのは、中々深刻な問題ではなかろうか。。。

 いつの間にか刷り込まれた観念に対してニュートラルな姿勢を保つ事だけでも、随分と違った世界が見えてくる。精密な天秤が僅かな重さにも敏感に反応するように、静かでニュートラルな心を保つ事が必要だが、知らず知らずの内に刷り込まれた牢獄から抜け出す唯一の方法かもしれない。。。

 

2007/10/10 01:34|山術房:心行TB:0CM:2
 

存在しなさい 

 人は、いつも何かを「為そう」と躍起になっている。

 人が為す。。。と書いて「偽り」。。。これには一体、どの様な意味があるのだろう?

 何故「偽り」なのか、わかる人がいるだろうか?

 

 何かをしてないと、人は不安になる。不安になるから何かをはじめる。

 不安から始めた事が、平安をもたらすことはあるだろうか?

 

 何かを為さないと不安なのは、何かを為さないと、何も変わらないと思っているからだ。

 何かを為して、それでも、いつも何かを為し続けないと不安なのは、

 何かを為して変わった様でいて、本当は何も変わっていないからだ。。。

 だから、何かが変わっても、不安は消えず、変わったことによって、また不安が始まる。

 つまり、本質は何も変わっていない。。。

 

 人の為す事が、何も変え得ないのなら、それはまさに偽りでしかない。

 何が偽りなのか、、、そろそろ気付いてもいい。。。

 

 あなたは、状況を変えようとしているのでは無い事を。。。

 あなたが本当に変えようとしているのは、自分自身だということを。。。

 だから、あなたが外に向かって、どれ程の事を為そうと、何も変わらず、不安は消えない。

 

 内(自分自身)に向かわなければ、どこにもあなたはいない。

 どんなに目を見開いても、あなた自身は何処にもいないだろう。

 あなたがいなければ、誰がそれを為すのだろう?

 何かを為すためには、為す人がいなければならない。

 あなたは、その為す人を見つけただろうか?

 

 あなたは不在なのに、未来という客を招こうというのだろうか?

 あなたは不在なのに、結果という贈り物を誰が受け取るのだろう?

 

 何かを変えようと思うなら、あなたはそこに在らねばならない。

 あなたは在るか?

 もし、あなたが、そこに在るなら、あなたは既に祈っている。

 

 あなたは何処にいるのだろう?

 この広大な宇宙のどこかだろうか?

 在るとは、場所でも、時間でもないものではあるまいか?

 

 だから、まず存在しなさい。 今、此処に存在する事。。。

 けれども、今も、此処も、在ることの要ではない。

 在ることは心の状態である。ゆえに在る事は祈りである。

 あなたが在る時、既にあなたは成している。

 

 聖なる場所はあなたの内に在る。

 

2007/10/09 02:13|山術房:心行TB:0CM:0
 

解禁! 

 ようやく試験が終わった。。。ε-(;ーωー)フゥ…

 まあ、でも、結果は、、、、アハハハ。。。(^^ゞ

 

 試験も思ったより早めに終わり、時間もあるので少し遠回りをしてとある場所に向かった。天気も良いし、気掛かりなものは結果はどうあれ一応終了!なのでハンドルを握る手も軽い(笑)

 目的地は秋田県大湯のストーンサークルだ。特別理由があったわけではないが、何となく気になって向かってしまった。ここには何度か足を運んでいるが、1Kmほどの所には『黒又山』という人口のピラミッドがある。先年、某大学の調査隊がつぶさに調べて人工物だと太鼓判を押した和製ピラミッドだ。

 酒井勝軍が和製ピラミッドの条件としてあげた一つに、石棺などを収める空洞があることというのがあるが、黒又山にはもちろんそれもある。

 今では木々も密集していてちょっと見にはピラミッドとは思えないかもしれないが、少し変形型のピラミッドなのだ。

 

 その近くに環状列石があるのだから不思議好きの私としては気になる場所の一つなのである。それが下の写真。携帯で撮影したものを合成したので少し見辛いが、雰囲気が解って貰えれば嬉しい。

環状列石.jpg

 この円の直径は目測で2〜30mかな。。。中心部にはこんな石が置かれていたと思う。

KC350027.JPG

 上のパノラマ写真の環状列石を中心に群落があったようだ。詳細は省くが、その群落の作りも中々面白そうな気がしている。

 KC350031.JPG

 東西線上には出羽神社、愛宕神社があり、南北線上には草城神社、黒森神社がある。また、夏至ラインには駒形神社、四谷稲荷があり、冬至ラインには四角嶽と土ヶ久保神社という具合に配置されている。

 この遺跡は縄文遺跡ということになっているのだけれど、その頃から出羽神社とか愛宕神社があった筈は勿論ないだろうが、きっとそれ以前は何かの聖地だったに違いない(笑)

 って、こんな不遜な事を書いていると御叱りを受けそうだ。。。実は、これも少し見辛いが、帰り際にちょっと不思議な雲を見た。

太陽の異変.jpg

 見やすいようにと少し暗めに修正したのだが、太陽の周りには日暈の虹が出ていて、太陽に掛かっていた薄っすらとした雲が二枚の翼のように出ていた。太陽に向かっている黒いラインはまるで天狗様の鼻か手のようだった。

 自然の造詣はいつも感嘆に値するが、中々見られないので一応写真にゲットしておいた。勿論、ここに到着した時はこんな雲なんて微塵もなかったので、どことなく神妙な気持ちにさせられる。

 

 一通り遺跡を見て回ると、少し大きめの石が目に付いた。殆んど四角の石でまるで腰掛のように私の前に居座っていたので、それならと腰掛けてやった。(遺跡の保存委員の皆さんごめんなさい。決して悪さはしていませんので。。。^^;)

 ついでに、その石にこう言ってやった「お前がここに来た時は、どんな風だったんだ?」って(笑)

 自称アニミズム人の私は、相手が石だろうが川だろうが、木だろうが語りかける癖があるのだ。だから、私の目の前にあるものは全て御神体と化す(爆)

 すると、その石はがっしりとした男に抱えられて、ここに置かれたといい始めた。。。そりゃそうだ、少し大き目と言っても、少なくとも50Kgはあるだろうから、がっしりとした男じゃないとお前は持てないわな〜と言ってやった。

 そしたら、私の周りできゃぴきゃぴと子供たちの笑い声が聞こえ、周りを走り回っている。。。

 試験が終わった後の開放感があるとはいえ、きっと知恵熱が出てきたのだ。。。^^;

 そう思って帰ろうと思った矢先に、上の太陽のシーンに出くわした。。。。でも、太陽から羽って、ミトラの神様じゃないか!と、心の中で石に悪態を付いて帰る事にした(爆)

 

 その頃には陽も傾きつつあったから、黒又山の神様には今回は参拝いたしませんのであしからずと言う事も忘れなかった。。。でも、ここに来たのは数年ぶり。一日試験でつぶれるかと思ったけれど、あぁ〜思わず楽しい一日になった(笑)

 

2007/10/07 22:35|雑記TB:0CM:8
 
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