今年も早や師走を迎えることになった。こうして年末を迎えると、自分は今年何を為しえたのだろうかと毎年考え込むのが常だ。 これを為したと、胸を張って言えるほどの事がないと言うのはお寒い限りだ。しかし、時の流れに身を任せつつ、時の求めに応じるのみと決めたある年からは、これで良いのかもしれないとも思う。 老荘思想の無為自然という言葉が好きで、そうしようと決めたのであるが、そう決めてからもう4年になる。それまでの自分は、意志して事を為すべきか、流れを受容してゆくことにするべきかと悩みもした。 何かを為したいという欲求に抗うのは、それはそれでなかなか大変なことでもあるが、もうしばらくは決めた道を進むことになるのだろう。 ところで、このブログではいつも本当の自分という言葉を使ってきた。本当の自分を見つけること、それが一番大切だと、そのような事を書いてきたつもりだった。一方で、どう在りたいか?それが大切だとも書いてきた。 ある方からメールを頂いて、この二つが同じものだと書いたことがなかったことを思い出したので、少しく書いておきたい。 本当の自分は既に完成されている自分である。それは全ての人の中に存在するし、もし、私達がそれに関心を向けるなら、少しずつでも何かを感じ始めるだろう。 一方で、在りたい自分というのは、今現在の自分が考える理想的な姿である。理想は常に理想であるといわれるが、それは机上の空論という意味とは全く違うと私は思っている。というのは、理想に向けて私達が一歩進むと、理想もそれに応じて一歩進むことになる。 だから理想は常に理想のままであるが、その理想に向かって邁進するなら、過去に持っていた理想より今現在の理想の方がずっと高邁なものになっているに違いない。それは取りも直さず、その理想に向かって自分が成長してきたということに他ならないと思うからだ。 理想に向かう途道で獲得された特質は、私達の魂の中に輝けるエッセンスとして蓄積されてゆく事になる。もし、私達が生まれ変わったとしても、そのエッセンスは決して失われることはないだろう。 理想に向けて邁進するという事は自己の創造に他ならない。 つまりどう在りたいか?を洗練させてゆく作業と同じである。その洗練させた先に在るものが「本当の自分」なのだと思う。 究極の理想的な自分と、本当の自分が同じものという言い分には矛盾が指摘されそうな気もするが、スピリチュアルな世界でよく言われるハイアーセルフはまさにそれだとしか言いようがない。 私達がより理想的な何かを心から求めて、その感度を上げてゆくなら、私達はそのハイアーセルフと対面することが出来る。 不思議なことに、その理想を実現した未来の自分は、遥かな時を超えて私たちにメッセージを送って来てもいるのだ。多分この事は気が付いていないとしても、多くの人が体験しているはずである。 その一例を上げてみると、何かの問題が湧き起こった時、あなたはその問題に対面して不安になり、悩んだ経験があるだろう。それでも、心のどこかで妙に楽観視していたという体験はないだろうか。。。 この時あなたは、未来のあなたから「大丈夫、心配ない」というメッセージを受け取っている。 もちろん、こうした感覚的なことは、私達のエゴによる思い込みや、希望的な情緒であることも少なくないが、もし、あなたが自分の心を感じ取る感覚を養うなら、その出所を感得し得るはずだと思う。 時間の流れは、過去から未来へと流れる一方通行ではないし、元々時間とういう存在すら怪しいものだと私は感じている。 自己の創造には努力や意志が必要だし、そう簡単なことではないが、意識的でいる限り私達はみなその途上にいる。 そのような訳で、本当の自分を知ることと、どう在るか?という問題は同じことなのである。 実際に、あなたが、自分を理想的な状態へと運んでゆくことに集中するなら、あるべきではない状態も見えてくるはずだ。私達はこうした事を、理想に向かうなら当然起きてくる心の動きだと思っているが、実際にはそれ以上の意味があると私は思う。 いずれにしても、私の本当の自分に向けた自己創造への奮闘はまだまだ続きそうではある。。。
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