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趣味占放談

主に東洋占術の思想を使ってあれこれ考察しています

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Author:やわたうま
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メタボ健診と官民格差 

 4月から始まるメタボ健診、大よそ6割の人が反対しているが、それを押し切って実施する価値があるのだろうか?

 国の福利厚生は有り難いものだが、自分の健康管理までお国に決められるというのは、私達が自己管理が出来ない人間だと見做されているに相違なく、なんとも腹立たしいやら呆れ返るやら。。。

 しかも各自治体が国の決めた目標値を達せいしない場合、ペナルティーもあるというのだから一体何を考えているのだろうと思わずにはいられない。

 40〜74歳が対象ということだが、74歳以上の方はどうでも構わないと言っているようにも思えてしまうのは、私の偏見だろうか?

 

 72歳以上の方の年金天引きも決まって、少ない年金の中からに差し引かれる有様。この年代で殆んどの人は収入も無いだろう。少子化の現状と相まって高齢者の生活は国から支払われる年金が支え。医療費負担の増大と、年金まで搾取すると言っても良いほどだ。

 メタボ健診の有り様と言い、高齢者切捨ての思惑すら感じるのは私だけだろうか。。。

 こうした事も官民の年金システムや給与体系等の隔たりによる意識の乖離が大き過ぎるからだろう。。。地方によっては公務員と一般市民の平均年収は3倍近い開きがある所もあるようだから、彼らには国民の痛みは想像すら出来ないのかもしれない。弱者切捨ての姥捨て山政治がいよいよ表面化し出したというところか。。。

 

 江戸時代の政治体制は、経済力のある者には権力を与えず、権力を有するものには経済力を与えずだったと聞いた事があるが、今の日本には望むべくも無い。。。か。。。

 歴史を見ても官僚が力を持ちすぎた国は滅ぶもの。。。危うしだ。

 

 政治家、官僚を表す六白は今年暗剣殺、しかも太歳神付である。義のない愚策は将来忌むことになるだろう。政治に関する話は書きたくは無いが、憂いが募るばかりである。。。

 

2008/03/27 00:18|雑記TB:0CM:2
 

第二の天性になるまで。。。 

 何よりも心が大事だと教えられた時、羨みはまだ良いけれど嫉妬にだけは気をつけなさいと、そうも教えられた。羨みは人を成長させもするが、嫉妬だけは何も良い事がないと。。。

 羨みは「羊」+「涎」という文字だ。美味しそうな羊を見れば、涎が出てくるのは人の本能。けれど嫉妬には憎しみが混じる。。。(それにしても、何故に日本には羊はいなかったはずなのに、こうも羊の入る文字が多いのだ?)

 羨みと嫉妬の差が解らなかった頃、それはただの詭弁にしか聞こえなかった。今は、少しはそれが解る。。。

 羨みには、憧れという意味もある。けれど、嫉妬には憧れはなくなって、焦がれ、、、だけしかない。羨みも高じれば、妬み、憎しみの炎に身を焦がす事になる。一際輝いていた黎明も、嫉妬ゆえに地に堕ちたのだ。。。

 

 不思議な事に、人は何が羨ましい事かを何故か知っている。自分が持っている何かより、もっと素晴らしいものを見ると、それが欲しいと羨むものだ。そこまでは私達の本能、それに良いも悪いもない。問題はそれをどうやって叶えるか、、、なのだ。

 羨み、憧れて、自分もそれを手に入れようと一心不乱に努力するなら、羨みは私達を大きく成長させてくれる。けれど、自分が持たないものを、誰かが持っていても、それを妬み、憎しみを抱き、引きずり落とそうとするなら、彼を成長させる要素は何処にも無くなる。。。

 希求すればするほど、その狭間はとても危険な場所になる。

 その過ちを犯さぬようにするには、自分の心をコントロールする習慣が必要になるだろう。

 

 私達を苦しめるものは、本能から生まれるが、それは羨みと同じで、本来悪いものなんかじゃない。ごくごく自然なもので、正しい方法で、それを叶えるなら、私達は本能のお陰で成長する事ができる。でも、間違った方法で、それを達成しようとするなら、それは嫉妬と同じものになってしまう。。。

 私達はいつも、この様な選択に迫られているが、常に正しい方法を選択し続けるためには練習が必要だ。それが第二の天性となるまでは。。。

 

 未熟な本能から見れば、愛いすることも、許す事も、思いやりも、笑顔も、与える事も、全ては不自然この上ない事だ。それをしようとすれば、必ず本能からの抵抗を受けるだろう。だから、それをする事は、そうそう簡単なことではない。

 けれど、私達は、いつか、それを第二の天性にしなければならない。

 

 愛する事が当然であるようになるまで。。。

 愛そうと考えなくても愛しているようになるまで。。。

 許そうと思わなくても許しているようになるまで。。。

 与えようと考えなくても、全てを与えきっているようになるまで。。。

 愛とは何か、解らなくなるまで。。。

 許すとは何か、解らなくなるほどに。。。

 

 それを、あなたの第二の天性にしなさい。。。彼はそういった。その時、あなたは人になる。。。と。

 

2008/03/19 00:35|山術房:心行TB:0CM:0
 

春祈祷 

 昨日、当家で恒例の春祈祷が行われた。出羽三山の宮司さんをお招きして、地区の方々が集まり、一年の息災を祈念するために行われる。

 もともとは、地区の出羽三山参拝団というのがあって、その方たちによる地区をこぞっての行事だった。何処でもそうかと思うが、こうした行事に参加する方々は年々減少する傾向にあるため、近年は我が家を使用して行われている。

 参加者が集まって、祭壇から折り詰めまで全て手作りの自前である。最近、偶然にもとある方と月の神様に関する話をしていたので、こういう偶然も中々楽しいものである。

 

 その宮司さんが、月山参拝時の無邪気の話をされていた。お山の五合目辺りまでは、下界の邪気が漂っているが、そこを超えると邪気がスーッと消えていって無くなり、無邪気になるというのである。無邪気になると、頭がすっきりとして、身体も軽く感じるという。なるほど、邪な気持ちは、心魂を覆う鎧のようなものだろう。

 度々書かせて頂いている「ガラス張りの心」は、まさに無邪気な心に他ならないと思いつつ、お話を伺っていた。

 

 先年、実弟と白神山地に写真を撮りに行ったことがあった。土曜日に仕事を終えて出発、翌日の朝景を目指して車を走らせた。

 さあ、白神山地に着いたと思ったとき、目前に吊り橋が現れて微妙な気配をかもし出していた。私はあれっ?と思ったが、何せ恐がりな実弟が運転していたから素知らぬ顔を決め込んでいた。が、車が橋に差し掛かったとき、急な圧力を感じ度肝を抜かれたことがある。

 さすがに実弟もビックリしたようで「兄!今のなんだったんだ?」と慌てふためいていたのを思い出す。車中でしかも冬の事だったから窓は締め切っていたにも関わらず、風圧のようなものを二人で感じたのだから不思議な事この上ない。

 とは言っても、御神域に参入する時は、そう珍しいことではないが、その圧力間が桁外れだったのである。神社などに参拝すると、その雰囲気に打たれて清浄な気分になると言うのは良くある事だと思う。けれど、その時は気分だけではなく身体でも感じてしまうほどだったのだ。

 白神の御神域は随分と古い。どの様な神々が祭られているのか、恥ずかしながら私も知らないのであるが、年季の入った強力な御神力は十分に分かる。きっと、縄文の頃の古くから、そこは神々の御住まいだったのだろう。

 

 こうした御神域に参入すると、その御神力に触れて身の不浄が祓われる。身の不浄と言っても、神様から頂いた我が身体が不浄な訳ではない。よく六根清浄というが、六根とは「眼、耳、鼻、舌、身(蝕)、意」の六つの事で、見たもの、聞いたもの、など、五官を通して意識に入ってきたのもを、我欲から意識が曲げてしまうという事だ。

 だから、六根の不浄は私達の自己中心的な見方、聞き方、感じ方にあるという意味。それを清浄にするとは、我欲を交えずに有りの侭に見て、聞いて、感じるようにすると言うことでもある。

 

 清浄悉々の境地に座して惑わなければ、不成(ならず)を得ることなし。。。精妙な音叉は、微弱な音も拾い共鳴するように、清浄悉々の我が身は神惟に共鳴、共振して、世を開くのである。自ら清浄な音叉は、不浄な音を拾うことはない。。。そして私も、かように在りたいものだと願う。

 

2008/03/17 14:47|山術房:心行TB:0CM:0
 

ヴェーダ占星術 

 最近ヴェーダ占星術にハマっている(笑)

 占星術の知識も少しはあったつもりだったから、やり始めれば、そこそこの占いが出来るのではないかとタカを括っていた。しかし、これが中々に手ごわい。。。どうしても西洋占星術の癖が出てしまうし、名称はもちろん日頃馴染みのないあちらの言葉だから一筋縄では行かない^^;

 ようやく、基本的なところは覚えたが、それでも応用となると、まだまだ埒が明かない^^;

 とは言っても、少しくかじってみると、これがまた、どうしてどうして、魅力的な占いなのである。なんと言っても占いは当たらない事には話にならないが、少ない検証だけれど、その点も申し分ないと思えるほどである。

 それに東洋占術との接点が多いのも、私にとっては魅力的な点だ。どのようにして東洋占術の技法が生まれたかを考察する際には、かなり勉強になる。

 と、この様な現状で、中々、ブログ更新も途絶え気味になってしまっているのだが。。。^^;

 

 私にとっては新しい占いにチャレンジする事で、面白い発見も感じている。その一つが第三者の視点だ。

 占いを勉強する際に、一番有効な勉強の材料は自分自身や、家族、親族など身近な人たちだ。日頃親しい?だけに、何かと気付かぬうちに先入観や偏見を持っていることも少なくない。。。

 けれど、占いの象意をきちんと捉えようとすれば、こうした偏見や先入観ははなはだ邪魔な観念となってしまう。客観的、公平な視点で象意と突き合せないと勉強にも何もならないし、奇妙な独自理論へと偏向してしまう恐れもある。私の様に独学で勉強してきたものにとっては最大の難関だし、注意すべき点だ。

 最近は新しい占いに挑戦するという事もなくなったので、昔は心掛けていた注意点も、最近は忘れがちになっていたのではないかと思いを新たにした。考えてみると占いを勉強する事で、親しい人や、自分自身であっても、客観的に見る習慣を学ばされていたのではないかと、、、そう思い至る。

 

 占いを始めると、当てたいという気持ちが先に立って、象意を捻じ曲げて、無理やり当てはめようとしてしまうことが時々ある。それをやってしまうと占いの腕前は上達しないから要注意なのだが、それでもハッと気が付くと禁止地帯に踏み込んでしまっている事も少なくない。

 そのたびに引き返しては、余計な先入観や、思惑を排除するように努めるということの繰り返しである。

 

 ヴェーダ占星術を勉強し始めて、今までもそうしてきたつもりであったものが、いつの間にか失われてしまっていた事に気付かされた。これはありがたい副産物である。なるほど慣れというのは恐いものだと再確認させられた。

 「悟りとは、常に新鮮な驚きである・・・」

 これは、私が高校の頃の日記の一文だが、高校の頃の自分に叱咤激励されている気分に陥った^^;

 毎日の生活に慣れ、妻や子供たちの存在に慣れ、仕事に慣れてしまい、新しい発見が失われてしまっているのかもしれない。。。

 新しい情報に触れることで、新鮮な驚きを感じるのではなく、慣れてしまわ無い事で、常に新鮮な感覚の中に自分を置いておく。。。自戒、自戒である^^;

 

2008/03/11 21:43|命術房:占星術TB:0CM:2
 
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