昨日、当家で恒例の春祈祷が行われた。出羽三山の宮司さんをお招きして、地区の方々が集まり、一年の息災を祈念するために行われる。 もともとは、地区の出羽三山参拝団というのがあって、その方たちによる地区をこぞっての行事だった。何処でもそうかと思うが、こうした行事に参加する方々は年々減少する傾向にあるため、近年は我が家を使用して行われている。 参加者が集まって、祭壇から折り詰めまで全て手作りの自前である。最近、偶然にもとある方と月の神様に関する話をしていたので、こういう偶然も中々楽しいものである。 その宮司さんが、月山参拝時の無邪気の話をされていた。お山の五合目辺りまでは、下界の邪気が漂っているが、そこを超えると邪気がスーッと消えていって無くなり、無邪気になるというのである。無邪気になると、頭がすっきりとして、身体も軽く感じるという。なるほど、邪な気持ちは、心魂を覆う鎧のようなものだろう。 度々書かせて頂いている「ガラス張りの心」は、まさに無邪気な心に他ならないと思いつつ、お話を伺っていた。 先年、実弟と白神山地に写真を撮りに行ったことがあった。土曜日に仕事を終えて出発、翌日の朝景を目指して車を走らせた。 さあ、白神山地に着いたと思ったとき、目前に吊り橋が現れて微妙な気配をかもし出していた。私はあれっ?と思ったが、何せ恐がりな実弟が運転していたから素知らぬ顔を決め込んでいた。が、車が橋に差し掛かったとき、急な圧力を感じ度肝を抜かれたことがある。 さすがに実弟もビックリしたようで「兄!今のなんだったんだ?」と慌てふためいていたのを思い出す。車中でしかも冬の事だったから窓は締め切っていたにも関わらず、風圧のようなものを二人で感じたのだから不思議な事この上ない。 とは言っても、御神域に参入する時は、そう珍しいことではないが、その圧力間が桁外れだったのである。神社などに参拝すると、その雰囲気に打たれて清浄な気分になると言うのは良くある事だと思う。けれど、その時は気分だけではなく身体でも感じてしまうほどだったのだ。 白神の御神域は随分と古い。どの様な神々が祭られているのか、恥ずかしながら私も知らないのであるが、年季の入った強力な御神力は十分に分かる。きっと、縄文の頃の古くから、そこは神々の御住まいだったのだろう。 こうした御神域に参入すると、その御神力に触れて身の不浄が祓われる。身の不浄と言っても、神様から頂いた我が身体が不浄な訳ではない。よく六根清浄というが、六根とは「眼、耳、鼻、舌、身(蝕)、意」の六つの事で、見たもの、聞いたもの、など、五官を通して意識に入ってきたのもを、我欲から意識が曲げてしまうという事だ。 だから、六根の不浄は私達の自己中心的な見方、聞き方、感じ方にあるという意味。それを清浄にするとは、我欲を交えずに有りの侭に見て、聞いて、感じるようにすると言うことでもある。 清浄悉々の境地に座して惑わなければ、不成(ならず)を得ることなし。。。精妙な音叉は、微弱な音も拾い共鳴するように、清浄悉々の我が身は神惟に共鳴、共振して、世を開くのである。自ら清浄な音叉は、不浄な音を拾うことはない。。。そして私も、かように在りたいものだと願う。
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