日本には古来から言霊思想(「言霊(コトダマ)の国」解体新書 )がある。言葉には霊力が宿っているという思想だ。言語というのは思考の根幹だ。言葉がなければ考えることが出来ないわけだ。考えることが出来なければ判断も決断も出来ない。そのような意味でも言葉には確かに力がある。だが、言葉の力はそれだけには止まらず発声そのものにも力があるとされる。言葉はその意味と、発声の両方から力を放出しているのである。
昨今は日本の伝統的な言葉が失われつつあると懸念されている。なるほど昨今では美しい韻を踏んだ言葉を聞く機会は滅多にない。短縮された言葉は元来の意味すら失われつつあるように思う。特に若い人たちの言葉を聞いていると、しばしばその確信を深める機会に出くわす。
言葉の変遷は時代の流れだから、それを殊更諌める気持ちにはならないが、私の言語中枢からは理解不能の信号ばかりがほとばしる(笑)
言語が乱れるということは、言葉が持っている意味合いが曖昧になるということだ。曖昧な意味合いの言葉で思考しても曖昧な結論しか得られないのは自明の理だろう。いただけないのは、彼らの言葉が感情言語を多用しているということだ。
もちろん、そのような環境に置かれているということもあるのだろう。が、気をつけないと自分たちの人生そのものを破壊しかねないと懸念する(いい言葉は、いい人生をつくる―いつも私は「言葉の力」を味方にしてきた )。もっとも、右脳的な言葉の使い方は日本人特有のものだ。その特性があったればこそ、言霊と言われるほど日本人の言葉には力があったのだと思う。 右脳的言語という意味では、昨今の言葉は大和言葉(大和言葉を忘れた日本人 )の 元型に近いのではないかとも思えるが言葉と感情の昇華が必要だろう。この点が修正されなければ、日本の未来にとっても由々しき事態になるのではなかろうかと案ずる。
真言密教には身・口・意(しん・く・い)というものがある。印を結び、真言を唱え、観想することだ。その筋には密教が絶大な法力を持つことで有名だが、それもこの身口意のおかげなのだという。もしこれを現代感覚に翻訳すれば、ビジョン・目標・イメージ(意)を持ち、アファーメーション・前向きな言葉(口)を語り、実行(身)するということになるだろうから、なるほど、その法力は絶大なのだろうと想像する。密教のこのシステムは、願望実現のシステムそのものだと思われた方もおられるだろう。
何故このような記事を書くかといえば、たまたまニュースでアナウンサーが妙な表現をしていたのがきになったのだ。理由は他愛ないのだがシリーズ化しようかという思惑が働いた(笑)
さっと、読み流していただければ幸いである。
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